『物語 廃藩置県』高野澄
そもそも「廃藩置県」について考えたことなどありませんでした。社会科の教科書に出てきたくらいで、明治になって幕府が無くなったのですから、当然「藩」というものが廃止され新しく「県」になったくらいに思っていたからです。ところが『先見力と胆識』(新井喜美夫著)にあったように、それは徳川幕府であったときから考えられていた「群県制度」構想が基になっていること、しかもそれは幕末の徳川政権にとって薩摩や長州など統制の効かない藩を無くし、幕府が旧体制を改革し新たな中央集権国家をめざすためであったのです。
しかし徳川政権の間はそれが実行されることはありませんでした。小栗忠順は幕府内では勝海舟ら公武合体派とは対立する立場にあり、それが受け入れられることはなかったからなのでしょう。ところがその案は新政府になって採用されるのです。
本書は「物語」となっていますが、小説ではありません。廃藩置県が新政府の元、全国でどのように行われたか“物語って”いる本なのです。
新政府が行った蛮行の最たるものは「廃仏毀釈」だったでしょう。日本はもともと八百よろずの神々と同居してきた国でした。神様も拝むけど仏様も拝む。けれど明治新政府は「神仏分離令」を出し、それによって仏教排撃の気運が激化し、多くの仏像が破壊されたりしました。それと同じようにこの「廃藩置県」も有無を言わさず断行されます。この時実は多くの城も新政府に恭順の姿勢を示す証として破壊されています。
弾圧されたのは「仏教」だけではありませんでした。「儒教」もまた外国思想であり、「キリスト教」も同じく弾圧の対象でもあったのです。キリシタンは拷問しても改心させるとか、掟通りに死刑に処すとか、津和野藩では長崎で逮捕された153人が送り込まれ幽閉させられました。「神道」を唯一国家宗教とするイデオロギーが日本国中かけめぐっていたのです。
ところが寺や仏像が破壊されたり、僧が俗還させられたりするのとは裏腹に、逮捕されたキリシタンたちは無害だろうということで解放されます。これは妙ですよね。日本を「神国」とするならば、「God」という「神」を天界に置く異国の宗教を容認していいはずはありません。しかし「キリスト教徒」は放免されたのです。
本書にはありませんが、この背景には当時の日本の近代思想が、西洋文明と、思想としてのプロテスタンティズムの影響を大きく受けていたことと関係しているのでしょう。
【『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ウェー
バー】http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2005/06/post_d99a.html を読んでください。
宗教としての「キリスト教」は排斥するが、思想・文化としての「キリスト教精神」は見習うべきだという考えが明治新政府にあったのではないでしょうか。
さて、「大政奉還」した後、「廃藩置県」の前に自ら版籍奉還した藩も多くありました。中には財政上維持できなくなったというのもあります。多くの藩は藩独自に藩札など発行していました。多大な借財をそれで賄っていた藩も多いのです。ところが廃藩になるということは、それらが紙屑同然になるということでもあり、とんでもない事態が起こります。
中には藩財政逼迫のため率先して偽札を偽造する藩もあり、福岡県ではそれが問題になって知事となっていた元福岡藩主が罷免させられるという事態が起こります。
そもそも藩主は版籍奉還しても「県」と名が代わるだけで相変わらず世襲で県知事を歴任すると考えていました。ところが政府の考えは、あくまで任命権は政府にあり、国替え、藩の分断・統合とめまぐるしくその管轄区域も変えさせられていくのです。
戊辰戦争で幕府側についた藩は分裂されられたり、他の藩と統合されていくのならまだ分かるのですが、新体制に与し倒幕側で戦った藩が優遇されるということではありませんでした。何しろ今まであった藩が分割されたり、統合されたりするのですから以前のままの体制が維持できるというものではなく、それまでの藩の禄高を半減させられたり、温情として家督を譲り受けた息子などが県知事として登用されたりしていますが、それがすぐまた別の県と統合されたりして、結局は旧藩主の力は限りなく削ぎ落とされていったのでした。
維新の中心となった徳川慶喜の「水戸藩」の例で言えば、慶喜の弟がそのまま「水戸県」の県知事となり水戸藩を引き継ぐのですが、4ヶ月後には他の五県と併せて「茨城県」が誕生し、この時徳川慶喜の助命嘆願尽力を尽くした山岡鉄舟が知事となります。しかしそれも一ヶ月足らずでやめていて、水戸藩に限らず、「廃藩置県」においては知事も県名と同じく、もひじょうに短期間にころころ代わっていくのです。なにせ、「二本松県」がたった十二日で「福島県」に改名させられるなど、他県も同じ様な状況で、現在の市町村合併のように各藩の離合集散が激しく行われ、その都度県名も変えられ、藩士も移動させられたのです。
急激な政策転換による混乱がそれだけひどかったと言えるのかもしれませんが、それにともない県庁所在地の移動、リストラの嵐もひどく、これが負けた幕府側を指示した藩に課せられた明治新政府の仕打ちというのならそれなりに分かるのですが、そうではなく最初から官軍側についた藩でもそうだったのですから、旧幕藩体制にあった藩士たちにとって明治維新は一新どころか、とんでもない生活の窮乏を負うことになったのです。
藩が解体されたのですから藩士はみなすべて解雇ということになります。新しい「県」に雇い入れられた者はいいですが、ほとんどの武士は今後「自力」で生活していくよう言い渡されます。
「自力」でと言われても、武士としての暮らし以外の仕事などしたことが無いわけですし、農地を持っているわけでもありません。仙台藩では北海道への移住計画をしたり、「士族授産事業」として庄内藩では開墾事業が行われます。しかし、この庄内藩の開墾事業では「希望者」と言うよりはほぼ「強制」であったのでしょう。脱落者には切腹の刑を科すとなっていたとあります。すでに田や畑になっている所へ移住するのではありません。原野に放り出され、当然脱走者も多くあったのでしょう。
幕府そのものが無くなってしまったのですから、藩士の多くが一方的に藩から見捨てられ路頭に迷ったは仕方ないとして、では農民たちはどうであったのかと言えば、庄内藩の例として本書に書いてある内容によれば、戊辰戦争に負けた藩の賠償金は結局農民につけが回わり、その上庄内藩の農民は天候による凶作に見舞われ年貢減免の運動で役所に押し掛けたとあります。各地で一揆も起こっていますが、税金を取れるところから取っておこうというのは今も昔も変わらない政府のやり方で、農民にとって明治維新の恩恵など何もなく、むしろ明治新政府になって負担の方が多くなったと言えるのかもしれません。島崎藤村の『夜明け前』には木曽の住人が、明治新政府になって山の木一本自由に切ることはできなくなったことが書いてありました。結局庶民にとっては、苦しい生活が前にも増して待っていたということでしょうか。
| 固定リンク

