『関所 その歴史と実態』大島延次郎
江戸時代、各街道には関所が設けられていました。「関」を設けるということは人の往来も物資の流通も阻むということであり、警備上の効果はあったかもしれませんが、経済や文化の発展ということから言えばどうだったのでしょう?
地域の特性ということでいえば藩ごとに独特の政策・産業・文化が育成されたという功績があったかもしれません。地方地方で独特の方言も保たれました。弊害ばかりとも言い切れませんが、グローバリズムとは全く逆行する「関所」という物流の阻害・交通の遮断という論理が、どのようにされてきたのか歴史的な見地も考えながら、そのコンセプトを検証していきたいと思います。
とはいえ、日本のように島国ではない大陸にあるアジア各国、ヨーロッパやアメリカ、アフリカなどの、世界中のたいていの国々では陸地続きに国境があるので、「検問」や「検閲」は日常的なことかもしれません。そういった感覚で考えれば「関所」を通るということがさほど奇異なことではなく、現代日本人にとっては、一々往来を行くのに「関所」を通るという、そんなややこしいことがあったのかと考えるのかもしれませんが、むしろ世界的に考えれば、その都度「関所」を通り抜けるということは当たり前のことなのかもしれません。
荷物あらため、身分あらため、検問は世が不穏であればあるほど厳しくなるのも当然で、金属探知器は無論のこと、昨今では化粧品のような水モノが一切許されず、化粧品を旅行に持ち歩く女性は戸惑ったりします。
「関所」のそもそもの始まりは、荷物や身分あらためのものではなく、敵の侵入を防ぐ防御のための「関」でした。本書によれば201年神功皇后の時代、新羅より凱旋した皇后を討たんと待ちかまえていた忍熊別皇子らを防戦するため「関」を作って防いだのが、最も古い「関」の記録であるようです。
なんと神話の時代からすでに防御としての「関」が設けられていたのですね。そういえば、古代の遺跡である九州佐賀の吉野ヶ里遺跡でも柵を巡らした環濠集落でした。信長が武田の騎馬軍団を破った長篠の合戦で馬防柵が設けられましたが、このように敵の侵入を防ぐ目的で作られたのが古い「関」の最初で、東北・北陸の蛮夷の南下を防ぐ目的で白河の関・念珠関などがあり、もっぱら軍備目的で「関」は街道・要所に設けられていったようです。
戦時には「関所」が戦いの最前線となるわけですね。天武天皇が蜂起した壬申の乱の時も不破関を封鎖し、敵をそこにとどめて勝利したとあります。
この「関」を守っていたのが「健児(こんでい)」と呼ばれる強者で、奈良・平安時代に設けられ、実はこの健児が「ちから-びと(力人)=力士」の語源でもあるのです。「力の強い人。強健な者。また、勇猛な兵士。」と辞書には載っています。古い時代はそうした力持ちの戦士が「関」を守っていたのですね。
ところで余談ではありますが、相撲では横綱の土俵入りなどもそうですが、土俵上で必ず四股を踏みます。こうした相撲を取る前の儀式となっている四股は、決して単なる準備体操などではなく、もともとは呪術的な意味を持ったものでした。「横綱」の「綱」も本来は「しめ縄」だったはずで、大地を力強く踏み、その踏みならすということは「国踏み」の意味、踏みならすことでそこが自分の陣地であることを証明することでもあり、神事であったものがやがて娯楽性を持ち、今のような興業に発展していったのでしょう。
いずれにしてもその土地の大男・屈強の力持ちが「健児」となり、奈良・平安時代には「関」を守り、神事にはしめ縄を巻いて、相撲をとったのでしょう。
「関所」として、もっとも私たちに馴染みがあり、有名なのは『勧進帳』に出てくる安宅の関でしょうね。頼朝は落ち延びる義経を追わせ、各関に厳重な警備を命じますが、歌舞伎では弁慶の機転で通り抜けることになっています。実際義経一行は無事平泉にいくことができます。
義経をかくまった藤原秀衡は、ここで反対に義経を追ってくる頼朝軍を平泉に入れさせないよう念珠関・白河の関を封鎖して義経を守るよう遺言するのですが、息子泰衡は頼朝の脅しにおびえ、あっさりと義経を討たせてしまいます。
ということは、当時の「関所」の管轄が必ずしも幕府の影響下にあったのではなく、各豪族、その地域の権力者の配下にあったということですね。鎌倉幕府、頼朝からの勅命があったとしても、秀衡はそれをはね除け、頼朝軍と戦うつもりでいたのですね。
ところで、実は「関所」の役割は、身分あらため、武器や出女の検分ということだけではないのですね。「関所」では必ず「通行税」というものを払わねばならないのです。とはいえ、意外なことにこれは政府の管轄ではなく、「通行税」は各地方の寺社が寺院仏閣の創建や修理保全を目的として徴収し、大きな収入源としていました。
ちょうど義経が安宅の関を通過した時代、中世になると軍事目的とは別に「関」では「通行税」を徴収するようになるのですが、「通行税」であれば私たちはこれを税金のようなものと考えますが、実は元は東大寺とか各寺が勧進目的で「関銭」を取るようになり、それが他の寺社、豪族も目をつけるようになり、至る所に「関」が設けられるようになったとあります。
つまり寺社への強制寄付のようなものと考えればいいでしょうか。船が寄港する港や、寄る川でも「関料」が取られ、その負担もかなり大きくなるので、幕府から何度も禁止令がでますが、「関」を設けただけで多額のお金が入ってくるわけですから、そうした甘い利権を寺社が簡単に手放すわけはありませんよね。「関」が到る所に設けられ、なかなか止むものではなかったようです。
また寺社のみならず、地方の豪族も関所を設け、同じ市内でいくつもの関をまたがなければならない事態もあったようで、ひどい所では、淀川のほとりだけで「関」が380カ所あったそうです。
地域の特性ということでいえば藩ごとに独特の政策・産業・文化が育成されたという功績があったかもしれません。地方地方で独特の方言も保たれました。弊害ばかりとも言い切れませんが、グローバリズムとは全く逆行する「関所」という物流の阻害・交通の遮断という論理が、どのようにされてきたのか歴史的な見地も考えながら、そのコンセプトを検証していきたいと思います。
とはいえ、日本のように島国ではない大陸にあるアジア各国、ヨーロッパやアメリカ、アフリカなどの、世界中のたいていの国々では陸地続きに国境があるので、「検問」や「検閲」は日常的なことかもしれません。そういった感覚で考えれば「関所」を通るということがさほど奇異なことではなく、現代日本人にとっては、一々往来を行くのに「関所」を通るという、そんなややこしいことがあったのかと考えるのかもしれませんが、むしろ世界的に考えれば、その都度「関所」を通り抜けるということは当たり前のことなのかもしれません。
荷物あらため、身分あらため、検問は世が不穏であればあるほど厳しくなるのも当然で、金属探知器は無論のこと、昨今では化粧品のような水モノが一切許されず、化粧品を旅行に持ち歩く女性は戸惑ったりします。
「関所」のそもそもの始まりは、荷物や身分あらためのものではなく、敵の侵入を防ぐ防御のための「関」でした。本書によれば201年神功皇后の時代、新羅より凱旋した皇后を討たんと待ちかまえていた忍熊別皇子らを防戦するため「関」を作って防いだのが、最も古い「関」の記録であるようです。
なんと神話の時代からすでに防御としての「関」が設けられていたのですね。そういえば、古代の遺跡である九州佐賀の吉野ヶ里遺跡でも柵を巡らした環濠集落でした。信長が武田の騎馬軍団を破った長篠の合戦で馬防柵が設けられましたが、このように敵の侵入を防ぐ目的で作られたのが古い「関」の最初で、東北・北陸の蛮夷の南下を防ぐ目的で白河の関・念珠関などがあり、もっぱら軍備目的で「関」は街道・要所に設けられていったようです。
戦時には「関所」が戦いの最前線となるわけですね。天武天皇が蜂起した壬申の乱の時も不破関を封鎖し、敵をそこにとどめて勝利したとあります。
この「関」を守っていたのが「健児(こんでい)」と呼ばれる強者で、奈良・平安時代に設けられ、実はこの健児が「ちから-びと(力人)=力士」の語源でもあるのです。「力の強い人。強健な者。また、勇猛な兵士。」と辞書には載っています。古い時代はそうした力持ちの戦士が「関」を守っていたのですね。
ところで余談ではありますが、相撲では横綱の土俵入りなどもそうですが、土俵上で必ず四股を踏みます。こうした相撲を取る前の儀式となっている四股は、決して単なる準備体操などではなく、もともとは呪術的な意味を持ったものでした。「横綱」の「綱」も本来は「しめ縄」だったはずで、大地を力強く踏み、その踏みならすということは「国踏み」の意味、踏みならすことでそこが自分の陣地であることを証明することでもあり、神事であったものがやがて娯楽性を持ち、今のような興業に発展していったのでしょう。
いずれにしてもその土地の大男・屈強の力持ちが「健児」となり、奈良・平安時代には「関」を守り、神事にはしめ縄を巻いて、相撲をとったのでしょう。
「関所」として、もっとも私たちに馴染みがあり、有名なのは『勧進帳』に出てくる安宅の関でしょうね。頼朝は落ち延びる義経を追わせ、各関に厳重な警備を命じますが、歌舞伎では弁慶の機転で通り抜けることになっています。実際義経一行は無事平泉にいくことができます。
義経をかくまった藤原秀衡は、ここで反対に義経を追ってくる頼朝軍を平泉に入れさせないよう念珠関・白河の関を封鎖して義経を守るよう遺言するのですが、息子泰衡は頼朝の脅しにおびえ、あっさりと義経を討たせてしまいます。
ということは、当時の「関所」の管轄が必ずしも幕府の影響下にあったのではなく、各豪族、その地域の権力者の配下にあったということですね。鎌倉幕府、頼朝からの勅命があったとしても、秀衡はそれをはね除け、頼朝軍と戦うつもりでいたのですね。
ところで、実は「関所」の役割は、身分あらため、武器や出女の検分ということだけではないのですね。「関所」では必ず「通行税」というものを払わねばならないのです。とはいえ、意外なことにこれは政府の管轄ではなく、「通行税」は各地方の寺社が寺院仏閣の創建や修理保全を目的として徴収し、大きな収入源としていました。
ちょうど義経が安宅の関を通過した時代、中世になると軍事目的とは別に「関」では「通行税」を徴収するようになるのですが、「通行税」であれば私たちはこれを税金のようなものと考えますが、実は元は東大寺とか各寺が勧進目的で「関銭」を取るようになり、それが他の寺社、豪族も目をつけるようになり、至る所に「関」が設けられるようになったとあります。
つまり寺社への強制寄付のようなものと考えればいいでしょうか。船が寄港する港や、寄る川でも「関料」が取られ、その負担もかなり大きくなるので、幕府から何度も禁止令がでますが、「関」を設けただけで多額のお金が入ってくるわけですから、そうした甘い利権を寺社が簡単に手放すわけはありませんよね。「関」が到る所に設けられ、なかなか止むものではなかったようです。
また寺社のみならず、地方の豪族も関所を設け、同じ市内でいくつもの関をまたがなければならない事態もあったようで、ひどい所では、淀川のほとりだけで「関」が380カ所あったそうです。
甲斐の国武田では人の往来だけではなく商品に対しても関銭を課したと言いますから、関税のようなものでしょうね。取れるところから取っておこうというのは、今の税金と大差ないかもしれません
武田領内では商人以外からは関銭は取らず、商人5銭、馬一頭10銭だったそうです。しかし「関」を通るたびに「関銭」を取られるのではたまったものではありません。
富士山周辺では参拝客を見越して各豪族が関を多数設けたそうですが、しかし通行の度に「関銭」を払わされるのにイヤ気がさし、そのために参拝者が激減、富士詣での人が減っては元も子もありません。仕方なく「関」を無くしたりもしているそうですが、税金を高くしすぎれば購買意欲が無くなりかえって経済が落ち込むのと同じです。
信長はこうした「関」を撤廃しました。信長は「日本」という国をひとつに、天下統一ということを考えていた人ですから、「関」のようにいちいち面倒な手続きを要し、交通を阻み、物資の流通に弊害のあるものなど即刻廃止したのですね。自由な往来、自由な物流と自由経済の発展を試みた人でもありました。それ一つとっても、実に優れた近代思考の持ち主であったことが分かりますが、楽市楽座の税も徴収をしなかったことが本書に書いてあります。
市の商品売り上げに税金がかからないということは、タックス・フリーの免税店と同じですから、庶民の購買力も上がったでしょうし、何より経済の繁栄をもたらしたことでしょう。そればかりか信長は現在の東海道の元、往来の復旧に力を尽くしたとあります。
私が住んでいる地域には旧鎌倉街道の名残がある珍しい地域でもあるのですが、街道とは名ばかりの、巾が1メートルほどの、人がふたり並んで歩けばいっぱいという、狭い道幅の街道なのです。これでは馬も一頭くらいは進めるでしょうが、速駆けや、多くの武具で固めた戦闘部隊が通るには狭すぎる道なのです。この鎌倉街道はすぐ途切れ、旧東海道にとって替わるのですが、この旧東海道を整備したのも信長でした。
交通と流通が国造りや経済発展のためにいかに大事か、戦に赴くにしても交通網がいかに重要か、インフラ整備の必要性を信長は分かっていた人だったのですね。
ところが家康は、信長とは違い「徳川家」をいかに存続させるかに砕身した人でもありました。「豊臣家」の崩壊の轍を踏むまいと、各藩の蓄財も許さず、参勤交代や武器の移動の制限、あらゆる手を使って反乱の目を摘んできたのですね。
家康は戦国時代の下克上を知っていますから、内乱を一番怖れたのでしょう。「入り鉄砲に出女」と鉄砲の流入と人質となっている奥方たちが江戸から抜け出すことを厳しく取り締まったことは有名です。女の「通行手形」には詳しい人相も書いてあったそうですから、別人になりすまして通ることも警戒していたんですね。うたぐり深いというか用心深いというか、家康の執拗、細心の性格が窺えます。
「関所破り」は磔(はりつけ)の刑と厳しく、裏街道や抜け道をゆく者もいたようですが、村民の密告制度もあったようで、明智光秀が本能寺で信長を討ち、しかし毛利軍と対峙していた秀吉は電光石火の早業でとって返し、秀吉軍に追われる身となった明智光秀は落ち延びる際、農民に殺されています。
この時大阪方面にいた家康は急遽自陣である岡崎に逃げ帰りますが、この時も表街道の東海道は通らず、鈴鹿山系を経由、伊賀越えをしたことは有名で、忍びと家康の結びつきはこうした時からあったのですが、「関」を通らないで裏道を通り抜けることは、村人の協力無くしてできなかったのです。
近隣の村々へ用があって行くとか、山々へ仕事に行くのに、村人は当然「関所」を通るということなどせず、いくらでも山越えの抜け道があったのでしょう。しかしよそ者を簡単に通すことはしなかった。当時から密告者には報奨金を与えたり、「関所破り」を村人が監視していたのです。
家康は外様・譜代大名も参勤交代という制度を布き、隔年交代で江戸詰を命じますが、大名行列がしょっちゅう行き来するのですから街道は整備され、それに伴い旅籠や茶店、街道沿いに松並木が植えられたり、一里塚が置かれ、五十三次ぎのように宿場そのものが名所となったりもします。
「関所」を通るには「通行手形」というものがいるわけですが、本書によると遊芸人や下賤な者に通行手形は無かったので裏街道を行くか、関守が黙認するのが普通であったとあります。また山伏や僧は関所の通過が自由だったとありますから、芸人・僧侶、などといった人たちに限り往来が許されていたのでしょう。「関銭」も免除されていたとあります。
そのため僧や山伏に偽装して関所を通過する者が多くいたようで、義経が『勧進帳』で山伏に扮して通過するのも、芭蕉が僧の出で立ちで奥州へ旅立ったのも、「関所」を簡単に通過できるのが、そうしたいでたちであったからなのでしょう。
武田領内では商人以外からは関銭は取らず、商人5銭、馬一頭10銭だったそうです。しかし「関」を通るたびに「関銭」を取られるのではたまったものではありません。
富士山周辺では参拝客を見越して各豪族が関を多数設けたそうですが、しかし通行の度に「関銭」を払わされるのにイヤ気がさし、そのために参拝者が激減、富士詣での人が減っては元も子もありません。仕方なく「関」を無くしたりもしているそうですが、税金を高くしすぎれば購買意欲が無くなりかえって経済が落ち込むのと同じです。
信長はこうした「関」を撤廃しました。信長は「日本」という国をひとつに、天下統一ということを考えていた人ですから、「関」のようにいちいち面倒な手続きを要し、交通を阻み、物資の流通に弊害のあるものなど即刻廃止したのですね。自由な往来、自由な物流と自由経済の発展を試みた人でもありました。それ一つとっても、実に優れた近代思考の持ち主であったことが分かりますが、楽市楽座の税も徴収をしなかったことが本書に書いてあります。
市の商品売り上げに税金がかからないということは、タックス・フリーの免税店と同じですから、庶民の購買力も上がったでしょうし、何より経済の繁栄をもたらしたことでしょう。そればかりか信長は現在の東海道の元、往来の復旧に力を尽くしたとあります。
私が住んでいる地域には旧鎌倉街道の名残がある珍しい地域でもあるのですが、街道とは名ばかりの、巾が1メートルほどの、人がふたり並んで歩けばいっぱいという、狭い道幅の街道なのです。これでは馬も一頭くらいは進めるでしょうが、速駆けや、多くの武具で固めた戦闘部隊が通るには狭すぎる道なのです。この鎌倉街道はすぐ途切れ、旧東海道にとって替わるのですが、この旧東海道を整備したのも信長でした。
交通と流通が国造りや経済発展のためにいかに大事か、戦に赴くにしても交通網がいかに重要か、インフラ整備の必要性を信長は分かっていた人だったのですね。
ところが家康は、信長とは違い「徳川家」をいかに存続させるかに砕身した人でもありました。「豊臣家」の崩壊の轍を踏むまいと、各藩の蓄財も許さず、参勤交代や武器の移動の制限、あらゆる手を使って反乱の目を摘んできたのですね。
家康は戦国時代の下克上を知っていますから、内乱を一番怖れたのでしょう。「入り鉄砲に出女」と鉄砲の流入と人質となっている奥方たちが江戸から抜け出すことを厳しく取り締まったことは有名です。女の「通行手形」には詳しい人相も書いてあったそうですから、別人になりすまして通ることも警戒していたんですね。うたぐり深いというか用心深いというか、家康の執拗、細心の性格が窺えます。
「関所破り」は磔(はりつけ)の刑と厳しく、裏街道や抜け道をゆく者もいたようですが、村民の密告制度もあったようで、明智光秀が本能寺で信長を討ち、しかし毛利軍と対峙していた秀吉は電光石火の早業でとって返し、秀吉軍に追われる身となった明智光秀は落ち延びる際、農民に殺されています。
この時大阪方面にいた家康は急遽自陣である岡崎に逃げ帰りますが、この時も表街道の東海道は通らず、鈴鹿山系を経由、伊賀越えをしたことは有名で、忍びと家康の結びつきはこうした時からあったのですが、「関」を通らないで裏道を通り抜けることは、村人の協力無くしてできなかったのです。
近隣の村々へ用があって行くとか、山々へ仕事に行くのに、村人は当然「関所」を通るということなどせず、いくらでも山越えの抜け道があったのでしょう。しかしよそ者を簡単に通すことはしなかった。当時から密告者には報奨金を与えたり、「関所破り」を村人が監視していたのです。
家康は外様・譜代大名も参勤交代という制度を布き、隔年交代で江戸詰を命じますが、大名行列がしょっちゅう行き来するのですから街道は整備され、それに伴い旅籠や茶店、街道沿いに松並木が植えられたり、一里塚が置かれ、五十三次ぎのように宿場そのものが名所となったりもします。
「関所」を通るには「通行手形」というものがいるわけですが、本書によると遊芸人や下賤な者に通行手形は無かったので裏街道を行くか、関守が黙認するのが普通であったとあります。また山伏や僧は関所の通過が自由だったとありますから、芸人・僧侶、などといった人たちに限り往来が許されていたのでしょう。「関銭」も免除されていたとあります。
そのため僧や山伏に偽装して関所を通過する者が多くいたようで、義経が『勧進帳』で山伏に扮して通過するのも、芭蕉が僧の出で立ちで奥州へ旅立ったのも、「関所」を簡単に通過できるのが、そうしたいでたちであったからなのでしょう。
「関」をスムーズに通るためには、金額の多寡に限らず「袖の下」が巾を効かせていたり、今も昔も役人の堕落と腐敗、賄賂による便宜はこうした「関」でもあったようです。
このように厳しい検問と往来の取り締まりがあったことと、これは一見相反するようにも見えますが、江戸も天下太平の世が続き、庶民の生活もそれなりに豊かになり、余裕もできたということなのでしょう。物見遊山がてらの「伊勢参り」や「善光寺参り」など、庶民の旅が大流行します。人々は一生に一度でいいか「お伊勢さん」や「善光寺さん」、そうした寺社への旅をしたいと願っていました。今で言う積み立て貯金のような「伊勢講」など盛んに行われ、ツアーが組まれたりしています。『東海道膝栗毛』に描写されたままのような庶民の旅がされるようになりました。
これは『江戸の旅文化』神崎宣武 岩波新書 http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/03/post_6443.html にも書きましたので、ぜひ読んでみてください。
この本には、田植え前の農閑期、正月から春などにかけ、往来激しく街道は旅行者でいっぱいになるということが書いてありました。広重の江戸日本橋の橋の上や、越後屋前の通りの絵を見ても分かるように、どこも人で賑わい、けっこう人の出が多いのですが、お伊勢参りの街道もそれに準ずる賑わいだったようなのです。
これは『江戸の旅文化』神崎宣武 岩波新書 http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/03/post_6443.html にも書きましたので、ぜひ読んでみてください。
この本には、田植え前の農閑期、正月から春などにかけ、往来激しく街道は旅行者でいっぱいになるということが書いてありました。広重の江戸日本橋の橋の上や、越後屋前の通りの絵を見ても分かるように、どこも人で賑わい、けっこう人の出が多いのですが、お伊勢参りの街道もそれに準ずる賑わいだったようなのです。
どうもそれをネラって伊勢街道には、これまた、たくさんの関が設けられていたようなのですが、イヤハヤですね。
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