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2005年10月25日 (火)

『ユングとキリスト教』

『ユングとキリスト教』湯浅泰雄    講談社文庫


 「ユング派?」「フロイト派?」と聞かれたら、「フロイト派」と答える。ユングに惹かれる人は、彼の神秘主義、オカルト思考に魅力を感じるのかもしれないが、そうしたところにはついていけないものを感じていた。
 『キリスト教の歴史』を読んでいると、何故『原罪』や『処女懐胎』などという、まったくもって不可解な概念を創り出さなければいけなかったのか理解に苦しむのだが、一番不思議に思うのは『三位一体』という、無理矢理「神」と「聖霊」と「キリスト」を結びつける『受肉』という概念である。
 そもそも何故そのような論理が必要になったかと言えば、創造主『神ヤハウェ』と救世主『キリスト』の関係をどうするかという問題、『黙示録』による終末論に見る、キリストとアントキリスト、善と悪の概念、神と悪魔という存在、また心と身体、精神と物質など、地上の人間“人の子”としてのキリストと、“神の子”としての天上キリストを分ける、グノーシス派の二元論的キリスト教観を唾棄する必要があったからである。
 キリストが死んですぐ、神格化される過程で、こうした様々な矛盾を突く議論が起こった。2世紀には有名なイレネウス(エイレナイオス)の『異端反駁』があり、ここで神と聖霊とキリストの『三位一体論』が語られている。
 教会は“人の子”であるイエスが救世主『キリスト』であるとするために『神』の『聖霊』がマリアの体に降りて『処女懐胎』したと理由付けた。それがキリストの受肉(身体に聖霊が宿る)であり、救世主としての“神の子”の証としたのである。これで『神ヤハウェ』と『キリスト』が同じ一つの神となったのである。
 何故創造主「神」と救世主「キリスト」が、日本の八百よろずの神々のように、別々の神ではいけなかったのだろうかと、我々のようにどんな宗教も混在させてしまう国の人間は思うのだが、そんな国は例外であって、ほとんど「宗教」というものは、“絶対”どんなことがあっても信ずる『神』は一つで、異端を排する「一神教」が普通なのだ。そこには「真理」はただ一つという思想がある。創造主は一人、神の世界は一つなのだ。
 本書は『ユングとキリスト教』となっているが、ユングが述べている言葉が詳しく書かれているわけではない。むしろそのほとんどがキリスト教史の説明となっている。しかしそのことで、異端とされる神秘主義思想、グノーシスを何故ユングが追い求めたかという背景がよく分かるようになっている。
 父親が牧師でもあったユングは、正統派キリスト教にもっとも慣れ親しんでいた人物と言えよう、それが何故異端と言われるグノーシスに惹かれたかと言えば、「善悪」「神と悪魔」というグノーシスの思想は、神との合一(エクスタシー)を至上とする神秘思想や、悪魔の存在を怖れるあまり“悪魔払い”というオカルト思想も生みだしていたからである。ユングは子供時代から様々な超常現象を体験していたというし、またヒステリーの発作であろうと思われるが、妄想や幻覚、何度も気を失うことがあったという。ユングは代替自我(alter ego)、つまり二重人格(dual personality)の症状もあったということを考え合わせるなら、むしろユングにとって神秘主義やオカルトは、彼自身にとって一番切実なテーマであったのだろう。彼が「グノーシス」や「錬金術」などの研究、最終的にはアジア的仏教、瞑想や曼陀羅の世界にまで足を踏み入れていったことも、彼自身が抱えていた根底的な心的葛藤にあったのだ。
 彼はそうした自分の中の解明できない体験を、心理学的な研究対象とし、一般的な事象として止揚、霊的とは何であるかを追求しようとしたのである。
 一つユングとは別に、フロイトが行った精神分析の「連想法」をキリスト教の牧師への「告白」の形式と同じであることが書かれていて面白いと思った。なるほど。確かに精神分析医はただ黙って患者のいうことを聞くだけである。「懺悔」の儀式の方法と同じなのだ。
 

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