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2005年10月20日 (木)

『原罪』という不安の概念 キルケゴール

『不安の概念』キルケゴール    岩波文庫                               
                                                   
 芥川龍之介は自殺するにあたって、その心理状態を、「ぼんやりした不安」と表現した。エーリッヒ・フロムは「生」から限りなく遠ざかる「死」への願望を『悪について』で書き記した。「不安」や「よるべなさ」は、心理学で言えば、負の情動と言われるものである。

 「恐怖と同じように、脅威を認知したときに生じる恐れ。ただし、不安を喚起させる脅威は、自己の存在意識を損ねる、崩壊させるものといった象徴的な危険の脅威である。また、不安を引き起こす脅威は、象徴的なものであるために、いつ何がどのように起きるのかについての具体性に乏しく、曖昧さや不確実性が高い。」(社会心理学辞典より)

 「不安」はしばし発汗や、緊張、震え、呼吸困難、心拍数の増加、血糖値の上昇といった身体症状としても現れる。大勢の人の前で話しをしなければいけない時など、胸がドキドキしたりする。初めて体験することや未知の領域に挑む時、誰しも多少の不安がつきまとうものでしょう。
 しかし、本書でキルケゴールが述べている「不安」は、そうした単純な緊張からくる「不安」ではない。『原罪』というキリスト教徒が抱える、まさに「恐怖と同じように、脅威を認知したときに生じる恐れ。」なのだ。

 『誘惑』に負けたという罪。アダムとイブがエデンの園を追放され、苦難の道を歩むことになった咎。誕生の最初から、罪深い者であるとしてキリスト教徒が負っている『原罪』。『不安』という根源。

 しかし、キリスト教徒は、なにゆえ「罪」を負うということから出発しなければならなかったのだろう。「おまえたちは“罪深い”」と規定する神を創設しなければならなかったのだろう。
 悪いことをしたら罰せられる、地獄へ堕ちるという宗教的戒めなら、仏教も同じだ。しかし、何もしていない、罪を犯してもいない人間が、初めから架せられている『原罪』という、そのようなものが設定されている宗教、『原罪』の意味とは何だろう。
 その答えとして、キルケゴールが言うのは、『ほんとうに不安の詭弁に対して武装しうる唯一のものは信仰である』という結論、神への帰依、信仰心への帰結であった。

 「信仰」によってその不安も止揚されるという、なんと簡略な結論であるのだろう。『ソフィア(智慧)を愛す』、「哲学(philosophia)とはそういう意味である。論理学的に、哲学的に語ることが、真の理性であり、それが西洋の「知」、ほんとうの智慧であったはずだが、しかし、ニーチェ以前のどんな哲学者にも、そこに在るのは、真理はなく、いつもキリスト教徒であることの、信仰による教義に導かれた答えがあるのみだ。『智慧』とは、ア-プリオリ(a-priori)、先天的に神より授けられているものなのだ。

 むしろキリスト教徒でなくなることが『原罪』という、根源的な不安を解消、消滅させる手段であり、反進化論『インテリジェント・デザイン教育』という科学に逆行する教育から自由になり、真実の「知」に近づくことであると思われるのだが、・・・。
 しかし、神が創造(インテリジェント・デザイン)した「人間」であるという教育が、国家的になされようとしているのが、西洋キリスト教史の現実であるのだろう。                                                                                  
 注)岩波文庫では「キェルケゴール」と表記されています。きっとより正確な発音に近い表記なのでしょう。しかし、一般的にはそのように言っていないと思うので、通常言っている「キルケゴール」という言い方を採りました。

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