« 『原罪』という不安の概念 キルケゴール | トップページ | 『ユングとキリスト教』 »

2005年10月23日 (日)

『被差別部落一千年史』高橋貞樹 

 
  網野義彦『日本の歴史を読み直す』では、中世非人に対して、天皇あるいは神社仏閣直属である『神人(じにん、じんにん))』『供御人(くごにん)』『寄人』という観点から、あくまでも『聖別された身分』と言って、非人に特権が与えられていたかのような書き方をしています。
 しかし、現在に及ぶ被差別部落への差別を考えると、中世のように、今よりずっと厳しい身分制度があった時代に、はたして非人が特別な扱いを受けていたというようなことがあり得たのだろうかという疑問が湧く。
 確かに世阿弥のように将軍の側に置かれた者もいます。後白河法王は今様を好み、傀儡子や遊女という、女芸人を召し上げ、自らも好んで歌ったとされています。だから身分差別は無かった時代だったとはとうてい言えないと思うのです。はたして、中世に非人の差別はなかったのでしょうか。
  
  そもそも、身分差別の記述は律令制度の時代に遡り記されています。ではその当時の天皇陵を守る墓守がどういった「身分」であったのか、調べてみました。

  『被差別部落一千年史』は、『古事記』に遡っての、神代よりの文献を調べた『穢多』『非人』の差別の歴史の書である。
 本書によれば、「雑色」が官廷に属する「非人」であって、皇族の所有する雑色を「品部(ともべ)」と言い、氏族の所有する部民を「部曲(かきべ)」と言っている。大化改新以来の律令制度の中での社会構造と「不自由民」と「選民」の区別は以下のようになっている。「賤」のみならず「公民(自由民)」の身分も五段階になっているのに注目したい。


――――――――――――――――
  ■律令時代の身分と名称■
――――――――――――――――

「皇族」
「貴族」
  
(自由民)
「公民」
-「平民」
-「庶民」
-「百姓」
-「白丁」
-「公戸」

(不自由民)
「雑色」
-「品部(ともべ)」皇族直属
-「雑戸(ざっこ)」氏所有の部民

(賤民)
「五色の賤」
-「陵戸」天皇陵の守り \一戸を成すことを許されている。
-「官戸」官庁の雑役  /官戸は76歳になれば、良民として解放される。
-「家人(やけひと)」家住みの部民
-「公奴婢」奴隷 66歳になると、官戸になることができる。
-「私奴婢」純粋奴隷、売買も許されていた。田租免除。

―――――――――――――――――――――――――――――――

 これで見ると分かるように「陵戸」は賤民であり、平安以降奴隷がなくなってからも、仏教思想から、死体処理、墓守は、屠殺、肉食、皮剥、皮細工などと同様、出産と共に三大穢れとされ、「穢多」がその仕事を請け負っていた。中世以降「公民」と「職能賤民」の区別が曖昧になってからも、「陵戸」は賤民として残されたと『被差別部落一千年史』にはある。
 『穢多』『非人』という言葉と共に、特殊技能の集団には純然たる差別の歴史があったことが書かれている。それは現在まで続いてる流れであろう。 
であるにもかかわらず、網野氏が言うように、「陵戸」や「賤民」が賤しめられていなかったと考えられるだろうか。
  天皇直属であれ、官庁、寺社お抱えであれ、律令国家として身分が定められて以来、「雑色」「五色の賤民」が、その職業故、蔑視差別されていたことだけは確かなことである。
  
  大化改新の時より、「斑田収授法」により戸籍が作られています。満6歳以上の男子に二段(約23アール)、女子にその三分の二、驚くのは賤民も官有の官戸・公奴婢は良民と同額、私有の家人・私奴婢は良民の三分の一および婢ヒにそれぞれ三分の一を基準とする土地を与え、収穫の三パーセントを地租として上納することが決められていた。死ねばそれを国に返す決まりで、六年ごとにそうした口分田が割当てられていたことです。
 戸籍は、納税の割り当てが目的として作られ、それぞれの家の男女人数比と使用人の数で年貢を納めろという制度です。女性や奴婢にまで斑田が与えられていたことに驚くかもしれないですが、これはあくまで私有財産ではなく、単に働き口に見合った土地の広さが割り当てられ、それだけ働き手がいるのだから、当然その分きちんと税を納めよということなのでしょう。他には産物で納税する調と力役義務の庸がありました。
 
  網野氏は、「私奴婢」が田租免除されていたことをもって、特権を与えられていたかのように考えておられましたが、「私奴婢」は人間扱いなどされておらず、租税を払う対象としてみていなかったからではないだろうか。現在でも低所得者には税が免除されているのと同じではないかと考えるのです。同じく網野氏は神人の在家など「課役」が免除されていることを書いておられましたが、だからそれが特別待遇だったと言って良いものかどうか。
 何かが免除になるということが、特権とは限らず、むしろ人と同等と扱ってもらっていなかったという考えもできるわけです。
  更に大きな疑問は、『日本の歴史を読み直す』を読むと『神人(じにん、じんにん))』『供御人(くごにん)』が一般とは違った髪型、服装(黄衣)をしていたのも、特別待遇だったからというような書き方がされています。
 しかし日本では古くから「柿渋」で染めた衣類は非人のシルシでした。また物売りがどこでも諸国自由に往来できたからといってそれが、特権的なことだったとは思えないのです。
 河原乞食と呼ばれていた旅役者も今様の傀儡子や遊女も、盲目の琵琶法師も確かに諸国を渡り歩いていました。けれど彼らは生活のためにやむなく渡り歩いていたのであって、それを言うのに「特権」とか「自由」が与えられていたというのはどうか。物を売る職能民も芸人も、渡り歩くことが「許可されていた」ということだけのことだと思うのです。

  『ユダヤ人の歴史』ポール・ジョンソン(徳間書店)を読んでいましたら、ユダヤ人が馬に乗ることを禁じられ、黄色のバッジ、帽子、特徴のある印や衣服など付けさせられていたことが書いてありました。また職業も限られ、商人になったり、皮なめし工、ガラス職人、織物、染め物、医者など、技能で生計を立てる場合が多いのです。
 日本の被差別部落民に対する差別とユダヤ人が受けてきた差別の類似、特定区域での生活、穢れた人間という位置づけ、民間の場所への立入禁止、身分の分かる特徴ある印や衣服を付けさせられるなど考えると、網野氏の言う『「賤民」の「賤」が賤しめられているとだけ考えては間違いのようです。』との言葉は、何をもって言えるのか、理解に苦しみます。

  「雑色」の仕事は、八坂神社に属し洛中の死屍の始末、祇園祭りの道路清掃、平常は沓、弓などの製造をしていた「犬神人(いぬじにん)(つるめそとも言う)」と同じ様なものだと考えればいいだろう。
 しかし特定の『部』の職能民の集落『郷』にも入らない人に『余部(あまべ)』という帰化人がおり、清掃、皮細工をしたとある。また、もともと『部落』に属さない「山人(山窩)」、「浮浪人」「うかれびと」「浮かれ女(め)=遊女」「乞児(ほかい)びと」「遊芸人」「河原者」「傀儡子(くぐつ)=人形遣い」など、定住しない者も多かったようである。
 穢れを持った人々として、穢多、非人、産褥をする女も、仏教では往生はできない存在であった。しかし「肉食」「妻帯」、「悪人正機」、誰しもが往生できると説いたのが親鸞である。差別された人々の救済に、浄土信仰が鎌倉以降日本国中に広がるのはこうした所以である。一向宗門徒の強い団結も納得がいくのである。

  以前「阿弥号」を調べていた時、説教節や聖に「傘」や「笠」が出てきて、それが非人の印しかと思っていたが、『被差別部落一千年史』によれば、明治以降も草履以外は禁止、雨の日も裸足、普段は笠を被るのも禁じられていたとあり、「笠」に関する考察はもっと進めなくてはならないだろう。
 生活の至る所で、部落民と分かることが義務付けられていたようで、夜間外出禁止、一般の寺などに入ることも禁止、髪型から、服装、有名なのは柿渋と藍が非人の着装であったり、女に帯が許されていなかったり、一目でそれと分かるよう一般の人とは区別されていたようだ。
 住居も小屋以外許さず、天上や襖を入れ、紬を着た者が逮捕されたとある。大概は夙(しゅく)と呼ばれる刑場や、城下町では城外、町の外れ、河原、峠、坂が部落民の住まう場所であり、公民の家に入るときは草履を脱ぐことなど、往来も隅を歩き、公民とすれ違えば土下座するなど、差別の内容は凄惨である。住居や服装の規制は『ユダヤ人の歴史』とまったく同じである。

  江戸時代の「切り捨て御免」とは、穢多非人を人間と考えない殺傷のことだったのか、『被差別部落一千年史』には、こんなことが書いてある。
 稲荷神社に参ったところ、「非人がこんなところに来ては穢れる」と、よってたかって殺され、それを番所に訴えたところ、穢多の身分は平民の7分の1だから、一人の下手人を差し出すには、あと六人、穢多を殺さねば割が合わないと言われ、涙を飲んだというのだ。穢多が殺されても犯罪とはならなかったのである。
  江戸に入ると非人は「足洗」をして平民になることもあったようだが、それはもともと非人が情死未遂や、近親姦や罪人など平民から非人になったものも多く、救済措置が取られていたようなのだが、穢多は生まれついて生涯穢多とある。
 「穢れ」の職業だからと差別され、しかしその職業を変えることも許されず、生涯穢多として差別される。このような記述を読んでいくと、どのように考えても網野氏の言う「神仏の『奴婢』として聖別された存在」だったとはとても思えないのである。

  先日津島神社に行った折り、近くの寺で「当社は身元調査には協力いたしません」というような張り紙を見た。未だこのように、身元調査のために寺を訪ねる人もいるのだろう。大化改新時、天智天皇により「部曲」は廃止された。明治維新後も部落には「解放令」が出た。
 明治以降「非人」は消失したが、それでも「穢多」は残ったと、著者高橋貞樹は書いている。戸籍には「平民」ではなく「“新”平民」と記入されたとある。なんと由々しきことであろうか。

  「斑田収授法」でも書きましたが、使用人も税金の対象となっています。
ところが歴史この方、税金を納めない種類の人々もいたのですね。それは現在でも低所得者が納税を免除されているのと一緒のことで、当時はお金で納税するという慣習はありませんでした。石高というように、納税も農作物の収穫量で決められていました。ところが農民ではない狩猟民や耕作地を持っていない職人は、税の払いようがない人もいたのでしょう。免除されていた人々もいるのですね。
 明治になって選挙権が与えられた時も、一定の納税者のみが参政権を有していました。「士農工商」という身分制度から言っても、「職人」はずっと差別され、更に「穢多・非人」と言われるように、社会からもっと下層の無縁の人々が、税を免除されていたと言っても、それは特権ではなく、納税義務を負わない差別民でもあったということが言えるのだと思います。

 田畑と納税と戸籍と差別は密接に結びついているのです。


 ただ「網野史観」で言えることは、これらすべてが“私見”であると、網野さん自身が断っておられることです。
 
  【私は、非人は一般の平民百姓や不自由民である下人とも異なる、前章でもお話しした、神仏直属の神人、寄人と同じ身分と考えることができるので、ある種の職能民の一面ももっていると思っておりますが、これは学会のなかではまだ市民権を得ていない考え方であることを、最初にご承知おきいただいたほうがよいかと思います。】
 
  ところが、本人がそう言っているにも関わらず、中世に差別はなかったというような考えが一般に「網野史観」としてまかり通っています。
  律令時代より絶えることなく差別があったことを考えれば、網野氏の言う中世のみ賤民が「特権」を持っていたなどと考えられるだろうか? 
   
  今でも縁日、「観音の日」とか「弘法の日」とかに「市」が立つことが多いです。現在でもそうですが、こうした屋台とかの出店はテキヤ家業の人々が取り仕切っていて、「無縁」という言葉は、「知行の与(あずか)り知らぬ人たち」の管轄でもあったことを意味するのではないかと思います。

  被差別民の発生起源でもある「雑色」「雑戸」はもともと職能民を言うことなので、百姓農民ではない職能集団は差別的な待遇を受けていたと考えるべきなのではないかと思う。
 穢れを清める特殊職能は「神仏の奴婢」として別扱いされた存在」であったと考えるのが普通で、網野氏が言うような差別がなかったとしたら、一体今も何故ずっと、そうした職能についた人々が有史以来この方、差別されつづけられなければならなかったかが疑問である。
 
 

|