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2006年1月30日 (月)

『瀬島龍三 参謀の昭和史』

『瀬島龍三 参謀の昭和史』保坂正康(文芸春秋)
『幾山河』瀬島龍三(産経新聞社)

 歴史に「もし、」はあり得ない。“その時”そのような選択をした帰結が結果として現れたのであり、因果応報、そこには必ず基となった原因がある。歴史はいったいどこで間違っていくのだろうか。
 瀬島龍三という人の名を知らなくても元伊藤忠会長と言えば、「へえ、そうんだ。」と思うだろう。戦後裁判を受けながら政財界に復帰活躍した人物は多い。「昭和の妖怪」と言われた岸信介や、この瀬島龍三がその代表例である。
 一冊はノンフィクション作家保坂正康が描いた『(保坂)瀬島龍三』、もう一つは彼自身が書いた『(自身)瀬島龍三』である。この同一人物であるはずの、二つの『瀬島龍三』で語られていることを比べてみたようと思うのだ。
 当然『(自身)』が書いた『瀬島龍三』の方が正確で間違いないように思える。何せ本人が書いているのだ。しかしそう思うのは早計で、記憶は自分の過去でさえ美化した物語に変換することが多くある。それは“書き換える”ということとは違う。意図的でないにせよ“思い出したくない部分”を書かないということもあるだろう。
 そのことも含め昭和史の謎、太平洋戦争が一体どのような経緯で開戦に至っていったのか、検証していきたいと思うのだ。

 生まれや経歴は当然両者共書かれてあることは同じである。明治四十四年富山県の農家の三男として生まれたと本人は書いている。農家とはいえ、お手伝いの人がいたと書いてあるので貧農ではなく、ある程度の暮らしをしていたようだ。浄土真宗本願寺派のかなり信仰の厚い家だったらしい。
 陸軍幼年学校へ進学、その後陸軍士官学校へ入学、昭和七年士官学校を卒業すると富山歩兵第三十五連隊に任官。軍人生活をスタートさせる。生粋の帝国軍人教育を受けた人だ。
 一番のキーポイント、重要なのは、『瀬島龍三』という人が戦争中どのような位置にいて、どのような仕事をしていたかということだ。昭和十五年から終戦の昭和二十年まで、彼は「大本営陸軍課作戦部」に配属される。
 昭和十六年七月当時の作戦課の人事がどのようになっていたか、その表があり、そこには服部卓四郎中佐の下、「作戦班長」、「戦力班長」、「航空班長」と、班長はすべて34期~36期士官学校卒の上位中佐が並ぶなか、44期の彼がただひとり作戦班長の“補佐”として抜擢されている。
 戦後その責任を問われることもあってか、参謀配属当時を「最若年のわたしは」というような言い方をしている文もあるが、作戦斑では中佐の補佐として上位に書かれていることを考えれば、彼が作戦の中枢にいて直に関わっていたことが知れる。
 開戦に関して言えば『今日、冷静に振り返ってみると、「やはり大局的に問題があった」と反省せざるを得ない。」と書いている。
 日本軍のその先見性の無さ、あまりの楽観、あまりの暴挙、そんなことは今更聞くまでもない。問題は、それを押し進めた本人たちが“他人事のように”書いていることだろう。きっと誰もほんとうの責任者は自分ではないと思っている。彼とて単なる“補佐”であって参謀長でもない。
指揮官でもない。だからA級戦犯にもならなかった。ソ連での軍事裁判では一般の兵士と同じ強制労働が課せられているだけだ。しかしそれが彼の身の潔白を証明しているだろうか?
 作戦課にいる人間こそ、「やはり大局的に問題があった」ことを戦後ではなく、戦争の真っ最中、その時に見通す能力が必要だったのではないのか? 見誤った戦局を開いたことを傍観者の如く語るのは許されないのではないだろうか。

 ここで少し説明をすると彼の所属が「陸軍」とわざわざ明記されていることに注目しよう。同じ軍の中でも「陸軍」と「海軍」はまったく別の組織である。これは明治維新、日本が開国した当時より長州薩摩の「藩閥」がそのまま「軍閥」として二派に分かれ存続、反目しあっていたためでもある。
 実はこれが、本来なら当然助け合わねばならぬ作戦上の会議でも、連携を生むことなく、しばしば対立のもととなって太平洋戦争の際の大きな敗戦要因にもなっていく。
 お互いの面子だけで張り合い反目しあっていたとしたら、何と愚かしいことであるだろう。しかし両者が真に一体となって審議を進めるということは最後までなかったようで、陸海双方の意見の対立は救いようがなかったのである。戦局がさしせまってくるほど、陸海軍の意見はまとまらず、協調体制が取れないという事態に陥っていく。それはそれぞれの作戦の失敗で、友軍を送っても殲滅されるなど、自軍の戦力が無駄死にさせられることにも多く起因していた。
 「せめて両軍の作戦部が同一庁舎にあれば、」と瀬島は述べているが、陸海はそれぞれ別々の庁舎にあって、トップの意見の相違ばかりではなく、事務手続きから命令の伝達の仕方まで、お互いの組織はことごとく違うシステムによって動き、相互反目し合いながら、それぞれがそれぞれの無能ぶりを非難し、同じ戦争を“別々に”戦っていたのである。

 「陸軍課作戦部」というのは日本陸海軍にあって、エリート中のエリートが結集している部署で、天皇直属の機関でもある。ここに総ての情報は集められていた。
 太平洋戦争に限らない。いつの時代でも「情報」が戦局を左右する。
情報は戦略の要であり、一早く情報を制した方が勝つと言われている。しかし残念ながら、暗号文をはじめとする日本軍の情報はすべてアメリカに筒抜けであったことが戦後分かった。今でさえ管理不備での情報漏洩事件は後を絶たない。機密の扱いの不十分、意識の低さ、情報管理の甘さと言えるだろう。アメリカの諜報戦略技術は日本のうんと先を行っていたのである。
 彼が「大本営陸軍課作戦部」に配属された昭和十五年がどういった年であるかと言えば、前年の1939年[昭和十四年]に第二次世界大戦勃発、日本では中国にて関東軍、ノモンハンにてロシアと戦闘。これは関東軍が「大本営陸軍課作戦部」の指示無しに勝手に始めたものとされている。  
 翌年の1941年[昭和十六年]日本はハワイの真珠湾を攻撃、宣戦布告無しにアメリカと戦闘態勢に入り、太平洋戦争開始となる。
 日本がいかなる事情でこのような無謀な戦争に突入していったかは、様々な本に多く書かれていることなので省くが、まさかその後の原爆投下に至る血みどろの極限を国民が体験し、日本全土を焦土とする地獄のような泥沼に入っていくとは誰も予想もせず、軍部の“希望的観測”では短期決戦で終わるつもりでいた。
 何せ当の対戦相手のアメリカに頼っていた石油は断たれ、備蓄は今で言うなら二十六日程度しかなかったと言われている。石油を持たない戦闘など、最初から無謀な戦争であったというしかない。
 やむなくインドネシアなど南方に活路を見いだそうとするが、『太平洋戦争 封印された真実』で佐治芳彦氏が書いているように、「日本海軍は海の動脈シーレーン防御を本気で考えていたのか」、物資輸送船確保は真剣にされていなかったようなのである。あるいはそうした日本軍の情報もことごとくアメリカに握られ、シーレーンが確保できなかったということか。

 瀬島龍三は、ノモンハン事件に関わった軍人の更迭人事により「作戦部」に配属された。
 彼が配属された当時の日本の置かれた状況は、アジアにおいて自ら創り出したものとは言え、満州での中国軍との戦いの他、ソ連軍南下の危機も考えなくてはいけない厳しいものだった。両者に挟まれて“袋小路の鼠”状態におかれつつあったのだ。瀬島はこの万が一に備える、日ソ開戦時における作戦計画などを作成する任務に就く。勿論仕事はそれだけではなく、南方作戦の計画のため民間人になりすまし香港へ偵察に向かったり、海外諜報活動もしている。
 占領地域では度々武力衝突が起きる。ノモンハンでは国境を挟んで絶えずソ連軍との衝突が起きていた。しかし日本は中国国内の紛争だけでも手を焼いていたので、ロシアを刺激して参戦させることだけは避けたかった。またこれは一貫しているのだが、戦中天皇は「武力行使を避けるように」という言葉を言い続けている。戦後裁判を免れた経緯は「国体」を守るという国民の総意を無視できなかったということが言われているが、天皇でさえ事後承諾するしかなかったところにあるのかもしれない。
 至る所で現場と本部との意見は分かれ、関東軍の暴走に例を見るように、ほとんど本部の承諾無しに攻撃が進められることがあったのだ。
 では、そうした時の参謀本部はどのような対応に出たのであろうか。ノモンハンでは人事が更迭された。
 ここからが注目したいところなのだが、南方日本軍がハノイ進駐の際、ここでも天皇は「武力行使を避けるように」と言っているのだが、現地では武力でもって制圧。実はこの時参謀長から現地への叱責電文の送信を頼まれた瀬島氏は、その内容がかなり激烈なものであったので、自分の手で「私なりに慎重に考えたあげく、穏当な参謀総長電を起案した」と、“婉曲に書き直したこと”を述べている。
 なんということか? しかも、それを悪びれた風もなく、あたかもそうすることで現場と上層部の気まずい雰囲気を緩和させたかのように、彼自身の“機転の利いた”エピソードとして書いているのだ。
 はたしてそうだろうか? 断固たる「叱責」が“穏当な言葉”になれば、それは注意も喚起しない半ば了承されたものとして認知されたのではないか。本国での、「深刻な事態」という認識が理解されず、単なる「通達違反」程度にしか受け取られなかったのではないか。
 実は、これに限らない。様々な重要な「情報」が、その後も彼の手によって書き換えられたり、黙殺されたり、握りつぶされていくのだ。
 参謀本部では天皇にさえ情報を渡さないことをしている。歪曲、過小・過大報告は日常茶飯事、「大本営発表」に見る、正しい戦局情報は伝えないなど、信じがたいことが起こっている。

 さて、ここからは『(保坂)瀬島』本に移ろう。一番は真珠湾攻撃の前にアメリカ大統領から天皇に送られた電報に関してである。日本軍はすでにその時奇襲作戦を計画していて、開戦前に届いた大統領からの電報を隠匿した。
『(自身)瀬島』本では、あたかもそれは通信課の戸村少佐がしたことのように書かれている。しかし、考えてみるまでもない。軍隊という構造、参謀本部内における作戦課と通信課の関係、指揮系統を考えてみれば、通信課が独断でアメリカ大統領からの天皇への電報を留め置けるはずもないのだ。
 これを戦後東京裁判において初めて聞かされた東条英樹が驚いたとある。誰もが信じがたいことだったろう。アメリカの大統領から日本の天皇への電報が勝手に止められていたのである。日米双方、当の天皇は勿論、誰もが驚きを禁じ得なかったであろう。
 参謀本部作戦課では最初から「開戦ありき」という考えであったのであり、アメリカとの開戦を決定したその時から、翻意をさせるような外電差し止めを決めていたのである。
 しかしそれは通信課の一少佐が勝手に決められることではないだろう。特に軍隊の命令系統、上意下達の関係を考えるならば、大統領からの電報が届いたとき、瀬島と戸村が何を話し合ったか、最終的に戸村が「上げない」ことを判断したとしても、それ以前にそのようなことが話しあわれたはずなのだ。
 そして、その時通信課に命令する立場にいた者は瀬島なのである。それは彼のいつもながらの“機転を利かした行動”だったのだろう。
 真珠湾攻撃はまだされていなかったが、マレーでの攻撃はすでに始まっていたので、戦局は今更止められない。確かにそうかもしれない。しかしまだ開戦はされていなかったのだ。
 もちろん歴史に「もし、」はない。
 12月7日アメリカ大統領からの電文は握りつぶされ、翌日12月8日、真珠湾は攻撃されるのだ。ここから日本は泥沼の太平洋戦争に突入していったのである。
 
  実はこれには後日談があって、『昭和天皇独白録』によれば、開戦後天皇にこの電報は届けられたとあります。
 天皇はどんな反応をしたのか? ところがこのとき昭和天皇は意外な事を言っているのです。
  この電報に関しては、むしろ黙殺できて『不幸中の幸いであった』と述べているのだ。
 これは一体どうしたことだろう? 私たちは昭和天皇が少なくともこの戦争に反対の意を持っていたと思っていたのだが、天皇も開戦を止めるつもりなど無かったということになるではないか? アメリカの大統領からの親電が瀬島龍三に止められ、読まなかったことを『不幸中の幸いであった』と言っているのだ。
 
 ぜひ、『昭和天皇独白録』http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/02/post_132e.html も読んでみてください。
 
  

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