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2007年8月 7日 (火)

『複雑系』M・ミッチェル・ワールドロップ

Photo  さて、充分「物質」「生命」が分かったところで、いよいよ「宇宙」を含んだ『複雑系』に入りましょう。
 銀河系は何故渦巻くのか? 星は何故みな球体をして、そのどれもが回転するのか? 朝顔の蔓が螺旋に渦巻くのと、DNAが二重螺旋構造を持つのは、そうした宇宙の回転と何らかの関係があるのか?
 

  銀河系も太陽系もその同じ渦巻きの中で回っていて、どんな星も丸い「カタチ」を持つということを考えるとき、『なぜそれは起きるのか』の「シェルドレイクの仮説」http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/07/post_6fbf.html、「形の場」があるという考えは大変魅力的であるように思います。しかし、そうではないということは、『基礎からよくわかる 生物』http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/07/post_c136.html でも書きました。
 
  シェルドレイク言う過去に存在した原型からの『形態共鳴』、『形態形成場』は、それが一体どのようなもので、どこに形成されているものか論証不可能で、イギリスの科学誌『ネイチャー』からは全くの非科学的仮説であると弾劾されました。では星がどれも球体になるのはどのような理由からでしょうか? そのような「形の場」が無いとしたら、どれも同じカタチになるのは何故なのでしょう? 「カタチ」の“鋳型”、シェルドレイクの言う「形の場」というものが無いのに、何故モノのカタチは同じになっていくのでしょう。
 ここからが重要です。“鋳型”は無いけれど、何度ビッグバンが起ころうと、この宇宙では星は必ず丸いカタチになるよう収斂していくのです。(あくまでも我々の、“この宇宙の条件で”ということですよ。)
 おやおや、待って下さい。“必ずそのカタチになるよう収斂していく”のであれば、それを「形の場」と呼んでもいいのではないか、と考えますよね。それなのに何故頑強に「シェルドレイクの仮説」を否定するのか?

  「アフォーダンス理論」というものがあります。私たちはマウスの形に合うように指を縮め、手を丸くマウスの形に合わせていきます。「椅子」の形に合わせて腰の角度も決まります。
 パソコンの売場には様々なマウスが売っているように、家具屋さんにも様々な形の椅子があり、どれも私たちの身体は最初からそのカタチに合わせてできているわけではありません。マウスが大きければ手の広がりを大きく、小さければ握りを小さく、自分の手をマウスの形に合わせていきます。椅子の形に合わせ背骨や腰の調節をします。
 モノが形成される時も同じで、これは最初から大きさや形が決まっているのではなく、私たちの手がマウスを見て、その大きさを予測してから、マウスを包み込む手のカタチを決めるように、宇宙も様々な条件に合わせて“その形”に収斂していくのです。
  興味深いことに人間の「目」が形成される場合も同じで、それは『基礎からよくわかる 生物』http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/07/post_c136.html にも書いてありましたが、眼球のレンズも最初からその形をしてできるのではなく、まずレンズが入る窪みを陥入させるのですね。池を作って、その池の大きさと同じ水が溜まるのと同じです。最初からその水の量が決められているわけでもないのです。レンズもその陥没してゆく形に合わせてできていくのですね。
 これで、「カタチ」がそのように、ある初期条件で、“なるべくしてなっていく”ということが分かったと思うのですが、それを分かりやすく説明してくれるのが「カオス理論」です。
 
 自然界のモノがカタチ作られていく過程では、生物学的・物理学的な要件によって、物質はある一定の同じパターンを示します。しかし、それは雪の結晶が六角形の同じパターンを示していても、まったく同じモノは無いように、一つ一つは独立した「個」であるということです。
 雪は結晶化の過程のその時の温度や凍る時間の違いで、六角のツノの伸ばし具合を変えていきます。最初からそのカタチに向かうのではなく、温度差や時間差によって、“結果的に”そのカタチになる。そこがモノのカタチを語る時重要だと思います。この間ずっと「シェルドレイクの仮説」を否定してきた意味が分かっていただけたでしょうか。
  「カオス」の基本的な性格は、不規則に変化する“ふるまい”です。カップの中のコーヒーをスプーンで回し、その中にクリームをいれると白い渦巻きができます。「墨流し」という和紙や布に模様を描く手法がありますが、これも同じです。密度の違う分子は最初混じることはなく、水の流れにそって流線型や渦巻き模様を作るのですね。クルクルっと速くスプーンを回せば渦は丸くなり、線を引くようにスプーンを動かせばS字のような流線型ができるだけでしょう。しかしどちらも時間が経てば、コーヒーの中に溶け込んでいきます。
 「カオス」の重要な性質として、この「離数時間力学」というものがあります。時間と共に変化する。同じところにとどまらないのですね。クリームはどんどん広がっていきます。
 また「カオス」には、「初期の値に対する鋭敏な依存性」というものがあります。コーヒーの中のクリームの渦巻きのように、最初の“力の入れ方”が“そのカタチを決めていく”ということです。
 よく知られているのが『バタフライ効果』というもので、「蝶の羽ばたきがやがて大嵐を起こす」という喩えです。最初は微量な目に見えない違いでも、時間が経つに連れその差はどんどん広がり、やがて収拾もつかないほどに大きく拡大されていく事象。これは気象のダイナミズム、経済の動向などにも見られる現象と言えるでしょう。
 もう一つ「カオス」の特徴に、「フラクタル構造」というものがあります。『自己相似』、つまり全体の幾何学構造が部分の構造と同じになるということです。シダの全体のカタチと枝分かれした葉のカタチ、ブロッコリーなどもそうですね。このように分岐点を拡大しても同じカタチが現れる現象を言います。モノが同じカタチになっていく仕組みというのは簡単で、その領域に収束していくのは“同じ力”が働いているからと言えます。そこにある条件にそって、カタチというものは“一番安定した状態に落ち着く”ということ。
 これは宇宙の成り立ちも同じで、物質の形成も、生命の誕生も同じ、人間の社会の形成、経済の動向も同じ様なパターンをつくるのですね。そこで登場したのが『複雑系』という学問だったのです。

  「ふーっ。」、ようやく『複雑系』に辿り着きましたね。(笑)

  くり返し起こる同じ現象。大気の流れや、海流。木の葉の枝分かれ、人間の神経系の分岐、通信網、何故かこの世の中にはよく似た形、同じ形を持った仕組みがあります。人間社会も不思議なほど同じパターンを繰り返していきます。戦争と終結、平和、しかしまた同じように地域紛争が起き、戦争が起こる。歴史はそれの繰り返しでした。経済の仕組みもまた同じです。インフレーションとデフレーション、過剰生産過剰投資の後のバブルの崩壊。
 日本の「昭和恐慌」のすぐ後、昭和4年には「暗黒の木曜日」ニューヨーク株式が大暴落し、たちまち世界恐慌となって全世界を揺るがすのですが、この時も風評から取り付け騒ぎを起こしています。これは経済における「カオス理論」の代表例とも言えるものでしょうね。初期の値(誤った発言)が時間によってどんどん拡大されていく現象。偶発的、ほんの小さな出来事が取り返しの付かないほど大きな事態へと広がっていくのですね。
 社会的な事件・出来事ばかりではありません。原子は結合しやすく、細胞が“仲間同士”くっつきたがること、人間も同じで原始共産社会から現在の社会まで、必ず集団となりコミュニティを作り、社会を形成します。そして一旦作られた組織にはどんな小さな会社、グループにもリーダーになる首長がいて、階層化された構造を持ちます。また血液が身体の末端まで行き渡り、神経系を伸ばすように、人間の社会も必ずどこかで繋がる構造を持っています。鉄道網や道路網、航路、あるいはインターネットの通信網まで、ネットワークの系は同じ構造を持つのですね。

  ビッグバンによって始まったとされる我々宇宙。そこでは放射状に飛び散った宇宙の塵やガスが渦状に巻いてゆっくりと拡散していきました。渦巻きというというのはどういった状態でできるのか、そこでは外に広がろうとする遠心力と内に引き戻そうとする重力が拮抗しているのです。
 円運動は“中心に向かう力”「向心力」によって起こります。その内へ引きつける力が「重力」です。重力は常に物質に働きかけ月が宇宙の果てに飛んでいかず、地球の周りを回っているのもそのためですね。「万物は引き合っている」というのがニュートンの『万有引力の法則』です。 物質の質量が大きくて重力の力が強ければそこに引きつけられるのですね。温度差・圧力差・電位差など、非平衡性によって分子は動き、宇宙の渦巻きもそのようにしてできていきます。
 つまり、宇宙の渦も重力による中心に向かう力が働いているからですね。同じようにアサガオも重力を感じて、そこから上向きに円を描きながら成長させる特定の遺伝子を持っているとされています。

 さて、初期値に対する鋭敏な依存性、長期予測不可能、非周期的な「カオス」の“複雑なふるまい”に、もう一つ「有界性」というものがあります。宇宙の塵やガスが固まって星を形成していったように、タンパク質の合成から生命が誕生したように、不安定な軌道から有界な点に閉じこめられていくという性質です。カオスの中の秩序。無秩序な混沌としたふるまいから、秩序立った収束点へ向かいます。宇宙の塵やガスが星に収斂していくように、必ずその“一番安定した状態に落ち着く”場所に向かう習性があるからです。

 ところで、宇宙が拡散していく様子を表す言葉に「エントロピー」というものがあります。熱エネルギーはどんどん宇宙の淵に向かって拡大していっているのですね。鉄はそのまま置いておいても酸化して錆びていってします。宇宙の原理では「秩序」から「無秩序」へと、「エントロピー」は増大し続けているとされているのです。
 おや? しかし、生命は『自己組織化』し、“一番安定した状態に落ち着く”カタチを求め、その「有界点」に収束していこうとしています。つまり宇宙の「エントロピー」とは逆の、“「秩序」に向かう”働きをしているのですね。
 本書ではこの「エントロピー」の流れに逆らって、「増大」では無い「負(マイナス)」に向かう力を『ポジティブ・フィードバック』←(「エントロピー」的には「負」ですが、生命体のふるまいとしてはポジティブという意味なんでしょうね。)と言っています。生命体にとっての「エントロピーの増大」は『ネガティブ・フィードバック』ということになります。
 『生命とは何か』という本で、シュレディンガーが言った「負のエントロピーを食べる」という表現は、この『ネガティブ・フィードバック』を食べて、「エントロピーの増大」をくい止めていくということを表しています。
 人間の体温を考えても分かると思うのですが、エネルギーの基となる食品を体に入れ、しかし体温は36度前後に保つよう、体内の熱を発汗で調整します。人間の体の仕組みは、余分なものは排出されるよう、いつも安定に向かうよう考えられていますよね。


 【秩序】(エントロピー――――→拡大)【無秩序】
  ∥                  
 生命 (←負のエントロピーを食べる) 


  宇宙は拡大拡散してエントロピーが増大してゆく中で、我々生命体のみが「一つに纏まろう」とか、「組織化しよう」とか、秩序を好むのです。バラバラであることや不安定な落ち着きのない場から、安定する場所へ、波立つ水面が穏やかな平面になるように、平衡点に向かって収斂するのですね。
 物質も生命も宇宙も、それはやがて、一番いい状態に収まり、その「カタチ」が出来上がると、そこで「ロック・イン」します。結晶ができたり、生命体が固定化するのですね。その有界点(相転移を起こす場所)をクリス・ラングトンが「カオスの淵」と呼びました。
  ここでのポイントは、「複雑系」が生み出される場所が、不安定要素と安定要素を同時に持った場所だということです。氷が固まる時も溶ける時も、それは同じ「カオスの淵」で起こっているということです。つまり、それは完全に固体化する前、完全な秩序にいく手前の水の状態と言ったらいいでしょうか。自由に分子が動き回っている状態ですね。水が水蒸気になる場合も同じことが言えます。
 温度が低く0度以下になれば、水は氷になり、100度を超え高くなれば水蒸気になります。水の状態ではまだ未決定のまま、これは温度が、その後の“ふるまい”を決めていくからですね。 「複雑系」では、このように【秩序】に向かうか、【無秩序】に向かうかは、条件次第で予想不可能なのです。


     ←水の分子は自由に動き回っている→
 
 【個体(氷)】← 【液体(水)】→【気体(水蒸気)】

        ←安定性 と 不安定性→

       ←(どちらも選択できる状態)→  
             ∥
          【カオスの淵】

  【秩序】――――【複雑系】――――【無秩序】
   集結                離散
   結合                分解
   構築                崩壊
   
 
 我々の宇宙は、初期値の何かが違っていたらバラバラに離散して、地球は誕生していなかったかもしれません。生命もまた同じ、地球の物質の構造が少しでも違っていたら生まれていなかったかもしれませんね。しかしビッグバンによって宇宙に放出された物質は、バラバラでいるよりつながっていることを好み、酸素が水素と結合して水を生みだしたように、物質同士は簡単に結合する性質を持ち、そこから更に新しい物質を合成し、地球という星を形成してきました。
 熱い日玉であった宇宙の欠片の高温物質が低温に冷めていく時、あるいは電磁力、重力、太陽エネルギーなど、宇宙に働く物理的な力が分子構造に物質変化をもたらした時、【秩序】と【無秩序】の間、そのどちらにも相転移できるカオスの淵に、物質も地球も生命も誕生したということですね。 


  本書は物理科学的に「複雑系」を説明する本ではありません。「カオス」に現れるフラクタルな形のパターン、経済や政治、宗教や文化、人間社会に起こる似通った出来事、物質界、生命界、宇宙に出現する相似的な現象、こういったものをどう体系的に捉えたらいいのか、「複雑系」という概念を獲得するまでのドキュメントです。
 「複雑系」という学問がどういうものであるかということより、「複雑系」を研究する科学者がどのように「サンタフェ研究所」に集まってきたか、どういった順路を経て「複雑系」に取り組んできたか、その内容が物語風に順を追って書いてありますから、読み物としても面白く、『複雑系』に到る過程が簡単によく分かります。
 
Photo_2  ついでにJ・グリックの『カオス』(新潮文庫)も読んでおくと尚分かりやすいでしょうね。お薦めします。

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2007年8月17日 (金)

『エレガントな宇宙』ブライアン・グリーン

Photo  アインシュタインは著書『わが相対性理論』の「まえがき」でこう書きました。「あえてエレガントにはしなかった」と。
 本書『エレガントな宇宙』のタイトルはその“あえてエレガントにしなかった”というアインシュタインの言葉に宣戦布告、まるで挑戦状を突きつけたタイトルのようにも見えますね。あくまでもアインシュタインが認めなかった「量子力学」とアインシュタインの「相対性理論」を同時に語ろうというのが、新しく登場した「超ひも理論」というものです。 さて、では宇宙は本書が言うように“エレガント”に語り得るのでしょうか。

  量子はあまりに極小であるがために「重力」が働かないとされています。それよりも何よりも、「量子力学」が世に登場したとき、そのあまりに奇妙な“量子飛躍”というふるまいに、誰しもが戸惑いました。とびとびに現れる光の光子。波であり粒子であるという性質。その不確定さ。
  この光は光子の集団で粒子であり波であるという考えは、もともとアインシュタインが考えた「光子説」によります。その後シュレディンガーは「波動方程式」という電子の波を解く「波動力学」というものを考えました。 しかしその波が計算できたにせよ、「とびとびの光子とは何ぞや?」という謎は解けないままでした。計算上は「波」としてできるのに、実際の観測では「粒子の点」としてしか見ることができないのです。これはテレビ受像器などのシステムがそうなっていることを考えると分かりやすいかもしれません。実体は「波」であるのに、現象として現れる時は「点」になる。「点」の集結したものが画像ですね。  

 量子飛翔で誰もを一番悩ませたのは、そこに「粒子」が出現するのを確率でしか示せないということでした。普通、私たち地球上の物体は投げた方向に飛びます。力で押せば押した分だけ移動する。いずれにせよ向かう方向を私たちは見ることができます。ところが「量子力学」では、投げたのだからどこかに在るのだととしても、それがどこに出現するかが分からない。運良く出現した時初めて『あった!』と分かるというものです。
 いえ、“出現したから観測できる”のではなく、“観測者がいるから出現した”という言い方の方が適切でしょうか。いえいえ、これは摩訶不思議なことに、“観測した瞬間に現れる”という言い方が一番正しい表現かもしれません。観測者が見るまでは“在るとも言える”“無いとも言える”という状態なのです。

  そんな事があり得るのでしょうか。これは後に“シュレディンガーの猫”の「生きているか、死んでいるかのどちらか」という奇妙で、現実にはあり得ないアナロジーで語られるようになりました。
 箱の中に猫を閉じこめたとします。そこに粒子という毒矢を打ち込んだとします。もしこれが現実の物理界でなら、飛んでいった毒矢は猫に当たり、猫は死にます。ところが量子世界では、猫は死んでいるかもしれないけれど、生きているかもしれないという、判定不能の状態に陥ります。箱を開けて猫が死んでいれば粒子があったと証明でき、死んでいなければ粒子は無かった。しかしそれは箱を開けるまで誰も分からない。観測者が箱を開けた時分かるというものでした。猫は生きているとも死んでいるとも判定できない。生死半ば、どちらの可能性もあるということです。確立的に言えば、半々であるということになります。 
 アインシュタインはそうした確立論的にしか表すことのできない世界に納得しませんでした。それが『神様はサイコロ遊びをしない。』という有名な言葉です。喧々囂々の議論が巻き起こりました。
 ただ、ここで言う「確立」を誤解してはいけません。ここでの“無い”は、“無いように見えて在る”ということかもしれないのです。我々に見えないだけでどこかに隠されているとしたら? それが“折り畳まれた次元”という考えです。「多世界」という概念。
 
  宇宙を支配している「力」が4つあるとされています。それは「重力」と「電磁力」、原子核の中で働く核力としての「強い力」と、放射性の崩壊などを招く「弱い力」。
 原子の中の陽子と中性子をくっつける「強い力」を「グルーオン」と言い、物質界を形作った力と考えていいでしょう。原子の中の陽子と中性子は更に細かいクオークという物質で構成され、ニュートリノは高エネルギーの衝突によってつくり出されつかの間にしか存在しないことが確認されています。この時「粒子」に対する「反粒子」という物質が存在し、その「+」と「-」が互いにうち消し合い、消滅するとされています。その物質をうち消す合う「弱い力」が「ゲージ・ホゾン」と呼ばれているもので、「グルーオン」も「ゲージ・ホゾン」も元は同じ、光子の振動パターンによって変わるモノです。いずれにせよ、光子はいつも振動し激しくうち消し合い、一番落ち着く場所で固まる(物質化)するということですね。
 それはビッグバンの宇宙で塵とガスが収斂して物質を作り星になっていったように、激しく乱雑に動き回る原子核の中の電子が固定化されることが元素の始まりと考えれば分かりやすいのではないでしょうか。
 
 『化学 その現代的理解』 http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/07/post_bb00.html で、電子の動きと光を発生するメカニズムを書きました。
 原子核はプラスの電荷を持ち、電子はマイナスの電荷を持っています。モノが自動的にぐるぐる回るというのは地球の自転もそうですが、太陽との重力の関係と同じように質量の大きなモノに引きつけられる物理的な力が働いているからですが、電子が回る軌道の半径(n)に比例してエネルギーも高くなります。つまり、(n1)より(n2)の軌道の電子の方がエネルギーが高いということです。
 で、この(n2)の高いエネルギー軌道から低い(n1)の軌道へ電子が飛び移る場合、そのエネルギー差に相当する振動数の「光」が放出されます。
 
|―――|――――――|
中心   n1      n2
 核   電子     電子
 ●   ・←(移動)←・
        ↓
       ピカッ!
       (光子)

 電子が半径n2から半径n1へ飛び移る時、余分な電子は放出されそれが光の子となって宇宙に放出されます。もともと光と波は区別すべきものではないのです。波長の長さで光は電磁波からラジオ波までのスペクトルを持っています。スペクトル線が生じるのは、分子のエネルギーが変化するときに、光子が放出されたり吸収されたりするためです。
 
 【電磁波スペクトルとスペクトル領域の分布】
  《波長が短いものから長いものへ》
 
電磁波
  ↓
γ(ガンマー)線
  ↓
Χ(エックス)線
  ↓
真空紫外線
  ↓
 紫外線
  ↓
可視光線(色のスペクトル)
  紫
  :
  赤
  ↓
近赤外線
  ↓
遠赤外線
  ↓
マイクロ波
  ↓
ラジオ波
  

 さて、ここで重要なのは「波」という概念です。光子は「粒子」であり「波」であり、ミクロとマクロをつなぐものとして「波」はあります。
 何故「波」なのかということで言えば、「電子遷移」の特性として、分子中の原子核は電子遷移が起こった後では、前とは異なる力を受けるので、分子はこれに応答しようとして突然振動を始める。その振動構造は気体では観測できるが、液体や固体では線が重なり合い‘バンド’(周波数帯=波長)になるのです。スペクトルの振動構造は、ふたつのポテンシャルエネルギー曲線の相対的なずれに依存するので、もしこのふたつの状態の位置がかなりずれていると、振動の長い帯列band progression(たくさんの振動構造)が誘起されるからです。(アトキンス『物理科学』より)
 波長と振幅の関係を言えば、大きい地震ほど地震計の針が激しく揺れているのと同じで、波長が短いほどエネルギーは大きく、重い粒子ほど大きいエネルギーで振動するという性質があります。熱や光は波に変わり、反対に波(分子の振動)は熱に変えることができます。それを応用したのが電子レンジのシステムですね。
  
 さて、近年原子の中にはクオークよりも最小の「ひも」という物質が確認されました。この最小物質は小さく振動する粒子が集まっているものと考えられます。“ゆらぎ”の中にある“ひも状”の「波」と見たら分かりやすいのではないかと思います。
 その最小の「ひも」が、「万物の理論」=「Theory of Everything」、「M理論」とも呼ばれる『統一場理論』を証明するのではないか、マクロとミクロ、「力」と「物質」を同時に語り得る“エレガントな理論”がそこで見つけられるのではないか、というわけですね。それが『超ひも理論』なのです。この『超ひも理論』は「強い力」のみならず「重力も含めた量子理論」と言われており、これこそが宇宙を統一して“エレガント”に語ることのできるのではないか。
 残念ながら、今のところは「“ではないか”」と、まったく“エレガント”ではない、ただの推論に終わっています。


  ところで、マッハは「思考の経済」ということを言いました。「最小作用」、ある地点からある地点へ移動する時は最短距離の道を通ることが一番合理的であるように、自然も「節約」という概念があるのではないかというものです。物理科学の世界もひじょうに合理的な理由でモノが形成されていくと考えていいでしょう。
 これまでに分かっている「4つの力」のうちの、地球に働く「重力」も陰陽極の「電磁力」も合理的に説明でき、また量子世界の「強い力」も「弱い力」もその構造はよく理解できました。ただし、その4つを同時に語ることはできないのですね。今のところ「超ひも理論」がそれらをつなぐ“エレガントな理論”と成りうるのではないかと言われている段階です。
 要するに今のところそれは単なる仮説以前の問題にすぎません。しかし待って下さい。それでは空想やオカルトと同等の域を出ないじゃないですか。
 もちろんアインシュタインの特殊相対性理論も発表当時は「仮説」でしかありませんでした。その後光が偏光すること時空が曲がっていることが実証されました。「ビッグバン仮説」もハッブル望遠鏡がその先端を捉え、それは実際にあったと今では確実なものとされています。では「超ひも理論」が「万物の理論」=「Theory of Everything」、「M理論」とも呼ばれる『統一場理論』なのでしょうか?

 ここまで書いてきて言うのも何ですが、そもそもの疑問は、何故それを統一して語らなければいけないか、ですよね。
 一番疑問に思うのは、一つの身体を語るとき、「身長」と「体重」で語る場合当然「cm」と「kg」といったように測る尺度が違っています。「血圧」で測る場合「血糖値」で測る場合、当然その場合も測る内容が違います。一人の人間の身体を様々な角度から語る場合、その切り口は検査の方法の数だけあるはずです。
 何故、宇宙を語る場合は「マクロ」と「ミクロ」、「外見」と「中身」というように違った世界のものを同時に同じ尺度で語らなければならないのでしょう? 何故「量子力学」と「相対性理論」を統一して同時に語らなければならないか? 実はそれが一番悩ましい疑問の一つでもあります。
 
 宇宙を晴れ渡らせる“エレガント”な「万物の理論」はあるのでしょうか? しかし残念なことに、未だそれは「科学」では語ることのできない領域なんですね。

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