埴谷雄高と言えば『自同律の不快』という言葉に象徴されるだろう。聞き慣れない言葉であるが「自同律」とは論理学で言うところの「同一律」のことだと言われている。
ではその「同一律」とは何か? 「AはAである」と表す文章式のことである。このことから、埴谷雄高の言う『自同律の不快』とは“「(私は)(私である)」ということが不快”ということを言っているようなのだ。
しかし、「主辞」である(“私は”)と「賓辞」である(“私である”)が同じであることが一体何故不快なのであろうか? 「(私は)(私である)」からこそ“私”なのであって、それ以外の者であったら人格障害を起こしているとしか考えられない。であるにも関わらず「(私は)(私である)」ことが不快と言う埴谷雄高の言う『自同律の不快』とは何ぞや?
統合失調症でない限り、誰しも「(私は)(私である)」ということを前提として生きています。それにも関わらず一体何故埴谷雄高は「(私は)(私である)」ことが不快なのか? その疑問からこの考察は始まりました。
ではその前に、詳しく『論理学』について述べてみましょう。
『論理学』とは、そもそもソクラテス、プラトンの時代の弁論術に端を発します。プラトンの『パイドロス』に書かれたように、当時弁論には勝つための詭弁もあり、そうしたまやかしの議論に勝つためには、一寸の隙もなく論理的に話すことが重要視されたからです。破綻の無い弁論にするためには、論理を明確にすることであり、アリストテレスはそうした師プラトンの弁論術を『論理学』として体系化したのでした。それが有名な『三段論法』です。
『論理学』とは「前提より帰結する」演繹的な推理の体系であり、logicalな文の組立をするその方法でありました。基本はその命題が成立するのかどうか? 「論理(ロジック)」のための「論理(ロジック)」とも言えます。よく「論理的な」とか、「論理的でない」という言い方をする時、それは話しの道筋が立っているとか、おかしいとかを意味しますよね。あること(命題)が“「真」であるか「偽」であるか”を判定するために論理学は発展したもので、すべての“命題”はシンプルな基本形を持っています。それがアリストテレスの[三段論法]で、基本となる文章の【型】と、組み合わせの【格】が存在します。
【全称肯定型の命題】[A]→すべての(S)は(P)である。
【全称否定型の命題】[E]→すべての(S)は(P)ではない。
【特称肯定型の命題】[I]→ある(S)は(P)である。
【特称否定型の命題】[O]→ある(S)は(P)でない。
注:(S)=subject 【主辞】
(P) =predicate【賓辞】
アリストテレスの[三段論法]はすべてこの文章の型をもって表します。そして[A]や[I」の肯定型の「(××は)(○○である)」という言い方を「同一律」というのです。「同値」という記号「≡」を使いますが、これは数学で言う「=(イコール)」と同じです。
「すべての(人間は)=(動物である)」
「 (私は)=(人間である)」
「よって、 (私は)=(動物である)」
この論法は「(私)」=「(人間である)」ならば、「(人間)」=「(社会的な生き物)」であるとか、「(いつか必ず死ぬ)」とか、人間の属性を持ってきて多用に作ることができます。
(私)≡(人間)=(動物)
=(社会的な生き物)
=(いつか必ず死ぬ)
:
:
等々
ちなみに「同一律」の他に論理法則として代表的なものに「矛盾律」「排中律」というものがあります。
「矛盾律」とは、それは一人の人間が「(私は)(あなたである)」というようなことはあり得ないことから、「(Aであり)(Aでない)ということはあり得ない」ということを言います。「(私が)(私である)」なら「(私が)(私でない)」ということはあり得ないということですね。
一方「排中律」は、「(Aは)(Bである)か(Bでない)か、そのどちらか」ということを言い、その中間は無いというものです。つまり“シュレディンガーの猫”のパラドックスのように、「(猫は)(生きているか)(生きていないか)のどちらかである。」ということですね。
ここまでくれば『論理学』で言うところの「同一律」とは、単に肯定型の命題、「(××は)(○○である)」という言い方の論理法則を言っているだけのことだということが分かると思います。
「(私は)」という主辞が示すところの賓辞(私である)は、
(∀n)=n1,n2,n3,・・・
と、先程書いたように、「(私は)」=(人間である)」という言い方もできるし、埴谷雄高であれば「(私は)=(作家である)」という言い方もできるし、「(私は)=(男である)」「=(老人である)」「=(東京都民である)」「=(夫である)」と、彼の“属性”で言い表すことができるのですね。
さあ、では一体この「同一律」の何が不快だというのでしょうか?
考えるに、どうやら埴谷雄高は『論理学』的にではなく、ただ単に「(××は)(○○である)」という同値の論理形式の「AはAである」「(私は)(私である)」と言う言い方にのみに着目して使っただけのことで、わざわざそれを『自同律の不快』と言うほどのことではなかったのではないでしょうか。かえって意味不明の言葉となって疑問を持たれてしまうように思うのです。
この対談集の最初の「序詞」として、このような埴谷雄高の言葉が書いてありました。
私とは、何か。
それは、飛躍によって、或いは、徒歩によって、
自身以外のものに絶えずなりたいと志向するところの
不思議な精神である。
――――『論理と詩との婚姻』より
“自身以外のものに絶えずなりたいと志向する”
だから彼にとっての重要性は、「(私は)(不断に変わるモノ)」であって、「(ずっと私である)」ということはあり得ない。それは不快だと考えたのかもしれません。それが『ぼくはぼくだというのが不愉快だ』という埴谷雄高の『自同律の不快』なのです。
また、ドストエフスキーの『白痴』の中に登場するナスターシャという少女のことを何度も書いています。彼女は“物心つかない前に”トーツキイという人間の妾にされてしまう。『この物心つかない前というのが、重大だと思うのですね。』と彼は言う。
『というのは、ぼく達自身もそうですけれども、物心のつかないうちに思考と感覚を与えられて、それをそのまま生得のものと信じざるをえないから信じてきたのですけれども、考えてみるとナスターシャと同じように物心ついたときにはすでに侵害されていたのです。』と。
ここが埴谷雄高の『自同律の不快』の最も核心的な部分を表しているところだと思うのですが、要するに、私たちは“気づいた時”には、もう「(私)」になっていて、最初から「(私が)(私であった)」こと、物心ついた時に「(埴谷雄高は)(埴谷雄高以外の何ものでもなかった)」ことが不快であったということのようなのですね。
真っ新な紙に新しく(私)を創り上げるのではなく、すでに気づいた時には(私であった)こと、変えられない者であったことが一番の不快であった。故に彼は“自身以外のものに絶えずなりたいと志向する”自己超克を目差す思想に到るのです。
が、しかし、それを言うのに、わざわざ『自同律』という言葉、『論理学』を持ち出す必要はなかったと思います。
何故なら、もともと『論理学』の論理式は命題を書き表す形式にすぎず、本来の意味の『自同律』を表す「同一律」とは、単に「(Aは)(Aである)」という肯定命題を書き表すための文章形式(シンタックス)のことを言っているにすぎないからです。
また「同一律」であれば、「同値≡」で結ばれる彼の属性すべてもそこに含まれるのです。つまりそれは「(私は)≡(昨日の私とは違う今日の私である)」とも書ける文章形式を言うのであって、「(私は)≡(××である)」と書くとき、この(××である)という括弧の中には数限りない変数で書き示していけるものであるからです。
「同一律」という、単なる「論理式」の一つの形式が何故そんなにも不快だったのか、疑問でした。しかし、埴谷雄高がむしろその言葉を『論理学』的には捉えてはおらず、“文学的表現”として使ったのだと一連の発言を読みながら感じました。
もし『自同律』が不快というのであれば、彼が最も信条とした「(私は)≡(作家である)」ということも不快であるということになってしまいます。けれど彼が言いたかったのは「(私は)(私である)」ところからの“存在を超越する”という命題であって、決して『自同律』が不快なのではなかったはずなのです。
もう一つ、これも大きな謎であるので、書いておきたいことがあります。それは、彼の著書『不合理ゆえに我信ず』という表題についてです。
これはテルトリアヌスの有名な言葉ですが、この意味はキリスト教社会において、常にキリストの存在に対する疑問があったことによります。
グノーシス派は【神】と【“人間の子”イエス】の『三位一体説』を認めようとはしませんでした。「グノーシス」とは、ギリシャ哲学以来の「知」を表し、新プラトン主義やピタゴラス派の流れとなるものです。
宇宙で唯一の絶対神、創造主である【神ヤハウエ(Jahvist)】は一つであるはずだ。というのが「キリスト教」が誕生した当初の大きな論争でした。そもそも人間の子イエスが何故神と同格になるのか? グノーシスのみならず、ユダヤ教も【神】と【キリスト】の二元論に反発、決して【神ヤハウエ(Jahvist)】以外の神を認めようとはしませんでした。「ユダヤ教」を源流としながら、「ユダヤ教」と「キリスト教」が現在まで離反したままであるのは、その一点にあります。
そうしたキリスト教会からすればグノーシスやユダヤ教などの“異端論者”から何を言われようと、たとえ“不合理であっても私は信ずる”ということを主張したのです。
しかし、グノーシスを理論で打ち負かすには、何としても“合理性のある理論”を確立せねばなりませんでした。それが【神】と【キリスト】を【聖霊=「神の御言葉」】でつなぐ『三位一体論』です。この【聖霊】の降臨『受肉incarnation』という概念によって、“名実”共に「キリスト」は「神」と“同格”になったのです。
『そんなことは信じられない』というグノーシスの批判に対して“不合理であっても私は信ずる”という言葉が『不合理ゆえに我信ず』の本来の意味です。
であるなら、一体どのような意味合いで埴谷雄高はこのような言葉を著書名にしたかということですよね。『自同律』同様、彼はどうも本来の意味を考えもせず、言葉の持つイメージだけで使いたがる傾向にあったのではないでしょうか。
もちろん、それだからダメだ。というのではありません。彼の使う言葉が仮に本来的な意味を誤って捉えていたとしても、彼が言うところの“存在を超越し”作品に向かう挑戦は大いに評価されるところだろうと思うからです。