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2007年10月 3日 (水)

『世界は劇場』 磯野守彦

Photo_2   前回書きました【英文学とその宗教的背景】を考えるに相応しい本がありますので紹介します。

  日本にも『世界定め』という言葉があります。歌舞伎などであらかじめ決められている約束事。設定された世界というものがありました。舞台の上での演劇は役者が演じる空事でありながら、『劇場を世界とし、世界を劇場と化すのである』と磯野氏が述べているように、そこに異空間を創り上げていく。 
 西洋の場合は教会劇から始まっていますからテーマは『聖書』の中のキリストの物語であり、『神を頂点とする<劇場=世界>の構図』と本書に書いてあるように、世界の構図の中心に「神」が存在していたのですね。そこに描かれるのは「神の世界」の神聖、清浄、無垢であるのに対し、反対に「悪の世界」は欲に溺れ貪欲で抑制の効かない人間界を表すことなのかもしれません。最後は「悪」が懲らしめられるのですが、“悔い改める”前には“罪深い人間”が描かれるのです。
 どうやらこの“悔い改める”というのは“試される”と並ぶ、キリスト教のテーマなんですね。いずれにせよ「神の御手」による導き「神の恩寵」によって人間は正しい道へ誘(いざな)われると言えるのでしょう。本書にはシェークスピアの『終わりよければすべてよし』が紹介されていて、突然の改心について書いてあります。磯野氏は突然真実に目覚めたり、『突然悔い改め、愛徳の教えに従う』。これは『半ば宗教劇であるこれらの劇では、突然の改心は一種の「奇跡」の表れであり、突然であればあるほど効果は大きくなる。』と書いておられます。 

  とはいえ宗教的な道徳劇ばかりではありません。シェークスピアは特に人間の本心、その奥に潜む邪心や欲、人間の「悪」を描いた人でもありました。『マンドラーゴラ』は“目的のためなら手段を選ばない”マキアヴェリの『君主論』を下敷きに、君主は必ずしも道徳的である必要は無いといった内容になっています。これはチャップリンが『殺人狂時代』で、「一人を殺せば殺人だが、戦争で大勢を殺せば英雄だ」と言った言葉に通じますね。こうしたマキアヴェリズムがシェークスピアのリチャード三世やイヤーゴの人格を形成になっていると磯野氏は書いています。
 神的であることの「善」に対する「悪」、徹底した冷酷さや非情、悪意や嘘、人を信じない猜疑心など、悪魔的な対立構造を持ち込むことで、劇はよりドラマティックに展開することになるのでしょう。

  ここで、「おや?」と思うのは、中世イギリスとはほど遠いテネシー・ウイリアムズの『欲望という名の電車』が途中紹介されているのです。「欲望」と「墓場」という電車に象徴されるこの戯曲は「性」と「聖」の「汚濁」と「浄化」、一直線に「死」に向かうような清濁同時に重ね持った悲劇の物語ですが、なんと磯野氏によれば『聖書』が下敷きになっているというのです。
 主人公の名の「ブランチ」がフランス語の[blanche]の英語読みと言われてみれば確かにフランス語では「白」という意味。純白は潔白の色でもあり、そして『昔絵によく描かれた聖母マリアの着物の色。』と彼女がラストの場面で着る「青い服」の色は「聖母マリア」の象徴でもあります。
 あまりに昔に読んだのでまったく見過ごしていましたが、テネシー・ウイリアムズがこのように計算された構図で作品を作っていたとは知らなかったので驚きました。物語としても大変素晴らしいのですが、なるほど、そう考えてみれば彼女を執拗に追い込んでいく「スタンレーStanley」は[Satan悪魔][sataneひどい,すさまじい]というフランス語に通じますね。

  さて、【英文学とその宗教的背景】でも書きましたように、イギリスの宗教的変遷は他のヨーロッパキリスト教国とは少し様相が違い、カトリックとは一線を画した独自の「イギリス国教会」というものを作っています。プロテスタント的でありながらそうとも言えず、ピューリタン革命が起きる原因はそこにあったのですが、丁度エリザベス1世の時代、シェークスピアが活躍した時代は王もカトリックを擁護したり、プロテスタントを擁護したり、王が代わるたびにクルクル国の信仰も変わり、その度に対立する側が弾圧され殺されたり、国外に逃亡したりしていた時代でした。
 1603年エリザベス女王が死ぬとスコットランド王ジェームズ6世が後を継ぎます。この王がイギリス全土を統治することとなりジェームズ1世を名乗ります。それを記念して御前公演されたのが『マクベス』ということで、つまりマクベスを悪魔的に描くことで国教会のジェームズは神聖なる王という構図になっているのですね。
 ところがジェームズが即位するやいなや、1605年にはカトリック教徒が国会に爆弾を仕掛ける事件がありました。もうひとつ重要なことはイギリスにおける宗教対立はカトリックと国教会ばかりではなく、国教会反対するのはプロテスタントの信者も同じだったのですね。ですからイギリス国教会は両者に対しての厳しい弾圧を行っていたのです。この時ジェームズに改宗を迫られたピューリタン(清教徒)達が1620年メイ・フラワー号でアメリカに渡り、これがアメリカのWASPの始まりというわけです。

 その後チャールズ1世の時「ピューリタン革命」が起き王政は倒され、しかしその共和制はすぐに終わり1660年チャールズ2世の代に「王政復古」。実にめまぐるしく王制が入れ替わっているのです。シェークスピアの時代は政治とそれに伴う宗教も複雑に入り乱れ対立しており、彼の作品に多く政変が題材とされたのも、王たちが必ずしも名君ではなく野心あふれた野人のように「悪」として描かれたのも、こうした時代背景があったからでしょう。
 このジェームズ1世の時『欽定英訳聖書』が作られます。ラテン語からの卒業と言いますか、英国教会はカトリック本山と断絶していますから英国独自で何もかも進めていきたかったのでしょうね。

  ところで、シェークスピアの作品には“魔女”が登場します。私たちはそれを劇中の効果、ファンタジーとしての見方をしますが、エリザベス1世の時代からジェームズ1世の時代、どうやら一番“魔女狩り”がされた時代のようで、「呪術禁止強化令」というものがでているのですね。
 『マクベス』に登場する魔女が「悪」をそそのかす、しかしそれはおとぎ話の空言ではなく、現実に「魔女裁判」が行われ、「悪魔」の化身として“魔女”がいたとされる時代の話しであるということなのです。
 1736年魔女に関する刑罰法規が全廃されたとありますから、シェークスピアに登場する“魔女”たちもずっと現実に存在していたことになるんですね。もちろん何の謂われもなくぬれぎぬで“罪”を着せられるわけですけれど、ホーソーンの『緋文字』などにも“魔女”として断罪される女性の物語が描かれています。
 
 国教会に背く者即弾圧。カトリックvsプロテスタント、キリスト教vsユダヤ教、キリスト教vsイスラム教、ユダヤ教vsイスラム教、異教徒は「悪」という、こうした構図が綿々続いてきたというのが西洋の歴史でもあるのですね。
 

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2007年10月 4日 (木)

『聖母マリアの美術』諸川春樹+利倉隆著

Photo   この本はダ・ビンチやラファエロのみならず、聖母マリア絵画カラー図版網羅した一冊です。『世界は劇場』の中の『欲望といういう名の電車』の中に、主人公のブランチが『昔絵によく描かれた聖母マリアの着物の色。』とラスト「青い服」を着ている場面が登場しましたが、その「青色」こそが「聖母マリア」の象徴でもあるので、今回この本を取り上げました。
 

  本来であれば「キリストの母」というのみで、彼女がイエスと同じように「神」と同じ神格を与えられたということはないのですが、西洋のキリスト教社会では各聖人とは比較にならないほど「マリア信仰」と言えば「キリスト」に負けず劣らず別格の崇拝の対象となっています。そのあたりのところから考えていきましょう。 
 そもそもの母権、母なるものとして、それはどんな社会の歴史・宗教・文化の中にも、古代より母神を崇めるという風習がありました。エジプトのイシス神などもその代表例といっていいでしょう。それがやがてキリスト教の広がりと共に「マリア信仰」に移行してゆくのですね。
 日本の土偶もそうですが“乳房を付けた女神象”は世界中にあります。古代エジプトの「ホルスを抱くイシス」「ホルスに授乳するイシス」、ところがそれがキリスト教の浸透と共に「キリストを抱くマリア」「マリアの乳」になっていくのです。
  私も初めて知りましたが、どうやら「マリアの乳」が“聖なる遺物”として各地の聖堂に残されていると本書には書いてあります。「キリストの聖衣」とか「聖杯伝説」は有名なので聞いたことがありますが、まさか「マリアの乳」がそれほど残っていようとは!! これがあまりにたくさんの各地の聖堂に残されているということで、宗教改革者のカルヴァンは「マリアは雌牛だったのか」と言ったそうです。
 ありえませんよね。しかもキリストは人の子として生まれ、まだその時は“キリスト(救世主)”ではなかったのですから、ただの授乳する母親の乳滴を一体誰がなにゆえ保存などしたか? ということになります。「処女懐胎」にしろ、「三位一体」にしろ、この「マリアの乳」にしろ、かなり無茶な論理を教会は押し進めているような気がします。
  
  もちろんこの背景には、母なるものへの崇拝が民間信仰の大元にあって、女性の乳房というのは「産み」「育てる」豊饒のシンボルでもあり、当然キリスト教が始まったばかりの頃はそうした母権的なものがまだ残っていたのでしょう。「マリアの乳」崇拝も分からないではありません。ただ「乳」そのものが残っていると言い張らなくても、あくまでも“象徴”で良いではないかと思います。
 宗教的逸話を創作するにしても、それが現実に存在する「乳滴」である必要はなく、そういった物が無くても「マリア信仰」は存在しうると思うのですが、どうも何か実際に聖堂の“ご神体”としてあって欲しいということなのでしょうか。日本にも仏舎利にお釈迦様の骨が入っているのを本尊としている寺がありますから、教会にとって「マリアの乳」の“実物がある”ということが重要だったのでしょう。

 実はこの他にも興味深いことが書いてありまして、『聖書』には書いて無いのですが、後世の人がマリアを聖なる存在とするために、マリアの母親アンナも「処女懐胎」したことにしているのです。これも親子二代で処女懐胎にしなくても、“母”であるということだけで神聖さは確保できると思うのですが、何故か強引にそういう話しになっているのです。
 キリスト教は「禁欲」をモットーとしている宗教ですので、殊更「性」を禁忌(タブー視)している面があります。神聖な「神」であるキリストが性行為で生まれてはマズイ?  となると“聖母”である母マリアもやはり“性的”ではなく“聖的”に生まれていなくては? そこでマリア自身も「処女懐胎」で生まれたことにしてしまう。
  もう一つマリア誕生で興味深いのは、年老いた夫婦に子がなくて、そこに「桃太郎」「かぐや姫」といった昔話風に、マリアも年老いた子供の無い老夫婦に突如福娘的に授かるのです。何故か各国共通、“むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいて”、その老人夫婦に子が授かるということが福音、「物語」の始まりなんですね。

  ところで、ホメロスの『イリアス・オデッセイア』時代には、口伝ですから「六脚韻」を踏むとか、伝承の形というものがありました。実はこの『聖母マリアの美術』を読む前に『アーサー王伝説』を読んでいまして、この『アーサー王伝説』もケルトの口伝で吟遊詩人が詠み伝えた話しなのです。これがやはり『イリアス・オデッセイア』同じで、伝承の型として「トライアッド=三題詩」という型を持っているのです。それはどういうものかと言えば、「三」という数字にあてはめた暗唱の型なのですが、これが「四」という型もありまして、口伝での語りのリズムと同時に記憶術としての役割もあったのではないか、と私などは考えるのです。
 つまり、キリスト誕生の時、「東方三博士」がベツレヘムを訊ねてきますよね。『聖書』でもそうした「トライアッド型」になっていたから「三博士」であり、「三種の贈り物」であり、「三世代」と考えるのですが、いかがでしょう? 

  さて、キリストはユダヤ人ですから、この本ではキリストの割礼の絵も紹介されています。「割礼」という儀式もよく分からないものの一つで、何故か生まれてすぐ男性器の包皮を切除することが“神との契約”になっているんですね。
 ところで、そのモーセの戒律として、女性は産後40日は聖域から遠ざけるという風習があったようです。日本でも女性は血の穢れがあって忌み嫌われたと同じ様なことがキリスト教でもあったというのは驚きでした。イスラムでも女性は公的な場から完全に排除されていますが、「母権」「マリア信仰」の女性崇拝の一方で、その母性、産むという行為は西洋キリスト教でも“穢れ”とされていたのですねえ。

  この本には聖母マリアの絵画がたくさん掲載されていますが、「キリストに授乳させているマリア像」って、今日の私たちはあまり目にしませんよね。というか、一度も見たことがありません。前回書いた【『世界は劇場』】にあった『欲望という名の電車』でブランチが着た青い色として思い浮かべたマリア像もきっと、ダ・ビンチやラファエロの聖母子像だったと思うのです。「授乳姿のマリア像」を一般の人は想像しません。
 三世紀頃には授乳のマリア像の絵が描かれ始めたそうなのですが、しかし宗教改革後そういった絵はなくなっていったと本書には書いてあります。プロテスタントはカトリックより更に「禁欲」の度合いが強いですから、16世紀半ば「トリエント公会議」というものがあり、絵画の図柄も厳しく制限されていったらしいのです。宗教改革は個人にもひじょうに厳格さを求める改革でしたが、マリアの肌の露出なども許し難いこととして禁止していったのでしょう。宗教改革は、まだ古代原始の母神のイメージを残していた「マリアの授乳図」も無くしていったのですね。この変遷も大変興味深いものがあります。
 
 いかがです?  「聖母マリア」の描かれた絵画からも、いろいろなものが見えてきますね。

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2007年10月 6日 (土)

シェークスピア『ヴェニスの商人』

Photo   シェークスピアの時代の宗教的背景を考えるに、キリスト教社会でのユダヤ人ということも考えたいと思い、これ以上のテキストはないという『ヴェニスの商人』を取り上げました。
  

  イヤハヤ、現在でも悪徳ヤミ金融業っていますけれど、それは法定外の高金利で金を貸す業者であって、しかし『ヴェニスの商人』では金を借りる側の方が、金利など払わないと頑強に主張し、更に彼が「ユダヤ人」であるというだけで、見下した発言をするのです。
 借りる方が居丈高で、威張っているのですね。その言葉に押し切られて、シャイロックは「利息」を取らないと言うのですね。その代わり出てくるのが、例の貸した金が返せなかったら保証人であるアントーニオーの『“肉1ポンド”切らせて欲しい』という台詞です。
  オヤオヤ、こういう話しだったか。「財産を使い果たした一銭も持たない男」「友人にも金を借り、既に借金まみれになっている男」「その男がユダヤ人に金を借りるが利息は払わないと言い張る」。こういう話し。これが前半のストーリーなのです。
 「金儲けは大罪」として、しかしこの場合「利息をつけないで金を貸した」。しかし借りる側の二人はシャイロックがユダヤ人であるということだけでボロクソに罵って、“金貸しを商売としている男”に“「金利」を付けないことを強引に要求する”だけではなく、“犬”並の罵りを浴びせるのです。
 
  後半、今度は親の莫大な遺産を譲り受けたポーシャの婿取りの話しになっていきます。これがまた『かぐや姫』の話しのように各地の金持ち、王様が求婚に来て断る話しなのです。モロッコ王、アラゴン王、等々。しかもその断りというか彼女の選択方法は、『金の斧・銀の斧』という話しが昔話にありますが、それなんですね。王様を前に「金の箱・銀の箱・鉛の箱」を見せ、選ばせる。結論から言えば、「鉛の箱」に“当たり”が入っているわけなのですが、モロッコ王は「金の箱」を開け、アラゴン王は「銀の箱」を開け、ポーシャとは結婚できず去っていきます。
  イヤー驚きましたね。『ヴェニスの商人』って、そんな「おとぎ話」みたいな話しになっていたんですねえ。
  しかし、ここでも人種差別的な発言が出てきます。「金の箱」を開け、ポーシャの婿として外れになったモロッコ王に対し、ポーシャは彼の“肌の色”を差して『“ああいう肌の色の人”はみな、ああいう選び方をしてくれるといい』と言うのです。モロッコ王、アラゴン王など結局最初から“肌の色”で差別しているのです。
 で、その後バサーニオーが「鉛の箱」を開け、めでたく結ばれるというものです。彼は箱を開けた後、無一文であることを告白するのですが、ポーシャは言います。『私のお金はあなたのお金』!
  
  さて、アントーニオーの船が座礁して結局借りた金を返せなくなります。ところがバサーニオーにはポーシャの金が幾らでもあるんですね。何倍にしてでも返せばいいとポーシャは言うのです。ところが『利息は要らない、返せない場合は“肉1ポンド”』と言った約束を、今度はシャイロックの方が頑強に言い立てるのです。
 今まで散々馬鹿にされ、ユダヤ人だからと罵られてきたシャイロックに復讐の炎が燃え上がります。ユダヤ人だかといってキリスト教徒と同じ、夏になれば暑く、冬になれば寒い、針で突けば血も出る。屈辱を受けたら復讐をしてもいいはずだ。シャイロックがそう言う台詞があります。
 シャイロックは「証文通り」を望む。ところが『あんな酷い“犬”は見たこと無い』と犬畜生のように言われる。
 ここから物語は佳境に入り、ポーシャは夫の友人の大事と男装して裁判に乗り込むんですね。(ということは当時女性はそういった場所に入れなかったということでしょうか。)
  この法廷場面でもユダヤ人ということで散々シャイロックは罵られます。しかも法廷の中で“法を曲げて慈悲を”という答弁が繰り返されます。法律に則れば“肉を切り落とさねばならない”。しかしそこを曲げてユダヤ人であっても“慈悲を示せ”ということを公爵始め全員で言うのですね。そこでシャイロックは“「法」を曲げてもいいのですか?”と言う。
 キリスト教社会は「契約」の社会ですからね。ましてヴェニスの秩序も自由も「法」によって守られているはずだとシャイロックは主張するのです
 
  もう一つ、この物語にはシャイロックの娘ジェシカの恋物語も入っているのですが、ユダヤ人の娘にしては“清らかで美しい女性”ということになっていて、物語の途中で「キリスト教徒」に改宗するのです。
 そしてこの『ヴェニスの商人』の結末はご存知の通り、“肉は取っても、血の一滴も出さずに切り取れ”というもので、あくどいユダヤ人の“浅智恵”を男装したポーシャが見事粉砕するのです。ポーシャの“機知”でアントーニオーが救われる。一応メデタシメデタシで終わるのですね。
 で、今回再読するまで気が付かなかったことですが、実は最後シャイロックも「キリスト教徒」に改宗させるという話しになっているのでした。
   「ユダヤ人=悪人」→改宗→「キリスト教徒=善人」。『ヴェニスの商人』に見るユダヤとキリスト教の関係図式は実に単純にそうなっているのでした。

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2007年10月10日 (水)

シェークスピア『オセロー』

   シェークスピアの作品で人種差別的なものがあからさまに主題になっているのは『ヴェニスの商人』と、この『オセロー』です。

 先のサッカー・ワールドカップでジダンが頭突きで退場になった時、ジダンは別段“アルジェリアの移民の子”であることを罵られたわけでもなく、そうした差別用語を浴びせられたから頭突きしたわけでもないのに、一斉にマスコミ報道は“アルジェリアの移民の子”であることを書き立てました。その報道で初めて私たちも彼が“アルジェリアの移民の子”であることを知ったのですが、サッカーのフランス代表はアフリカ系黒人種の人が大変多く、それがフランス国内でサッカーを応援する人が少ない原因だという報道がありました。私たちから見ればジダンは“西洋人”の顔で、彼が“移民の子”などとは言われてみなくては考えもしなかったことなのですが、「顔の色」ではなく、その「出自」こそが秘かな差別の対象であったわけなのですね。
 普段は隠されているもの。しかし根深く根底にあるもの。それが「差別」なのだと思います。
 
  さて、『オセロー』は人種差別・宗教差別まっただ中の中世でただひとり将軍となったムーア人の話しなのです。「ムーア人」とは北西アフリカのイスラム人で、アラビア半島から移住してきたアラブ系の人々であるので、純粋のアフリカ系の人々とは違い、肌の色も茶褐色かそれより白い人も多かったのではないかと思われます。このアフリカを征服したアラブ系の人々がスペインやポルトガルに渡り、「ムーア人」と呼ばれるようになったことで、アフリカのアラブ系の人々の総称になったと中村保男氏が解説しております。
 クレオパトラが純粋アフリカ系ではなく、プトレマイオス王朝がアーリア系であったように、北アフリカを支配していたのは土着のアフリカ系民族ではないということ。アレキサンダー大王が拠点としたマケドニア、ギリシャも含む西アジア、古代シリア、ペルシャ地方の血も色濃く持っていた民族であるということです。
 さて、そうした時代背景があるにしても、313年ローマ皇帝コンスタンティヌスのキリスト教改宗によって正式な宗教として認知権を得、その後キリスト教は世界宗教としてヨーロッパに確立するわけです。 
 以前書いた【『ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル』】 http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/12/post_c092.html で、軍もカエサル個人の傭兵であったとありましたが、日本の荘園時代地頭を雇ったように、シェークスピアの時代も統治を治める各首領が傭兵を雇っていたのですね。『オセロー』の戯曲も同じく、ヴェニス公が持っていた軍の将軍地位にムーア人であるオセローが就いたという話しになっています。
 そして差別民であった「ムーア人」が将軍職に就くと言うことはまずあり得無いことであり、それだけオセローは信頼厚く優れた将軍であったということでもありますが、悲劇の発端はそこから始まったと言えますね。
 
  『ヴェニスの商人』にはあからさまなユダヤ人への差別用語、トルコの王様に対する肌の色の蔑視が描かれていました。ではこの『オセロー』ではどうでしょう。
 先ず最初にイアーゴーの台詞として、『ムーア人の旗持ち』という言葉が出てきます。つまり“ムーア人ごときの僕(しもべ)”であることをイアーゴーは憎々しげに語るのですね。またオセローを「黒羊」、「アフリカ産のバーバリ馬」と言った表現で悪態をついています。
 対してオセローの台詞に『王族の出』という言葉があります。オセローは高貴の出であり将軍として何ら引け目を感じる必要はないということを言っているのです。「差別」への謂われ無き理不尽さ、そういったものを下敷きにすることで、より劇的な効果を生み出していくのです。 
 
 さて、ここでオセローが抱く「嫉妬心」とは何なのか、考えてみましょうか。
 人は往々にして自己のコンプレックス(劣等感)を相手に投影させます。オセローは妻を疑いたくはないと思いつつ、しかし“もしかしてそういったこともあり得るかもしれない”という猜疑心を募らせていきます。このところの心の揺れを実に見事にシェークスピアは描いています。
 シェークスピアの戯曲はほとんどが元々民間に伝えられている話しであったり、史実からヒントを得たりしていますが、この『オセロー』にも実際の事件、モデルがあったようです。そして「妻殺しの男」の話を彼は、オセローの嫉妬心、猜疑心という人間の弱さとして肉付けしていきます。イアーゴーの嫉妬、悪への傾斜もまた人間の持つ弱さであり、双方の心の暗部が悲劇を生みだしていくのですね。
 嫉妬心や猜疑心、羨みや妬みも、それらすべては劣等感の裏返しでもあります。人間のふとした迷いで生じる弱さ、それは誰しもが持ち得る人間本来の姿であり、本性の表れとも言えましょう。それを見事に描ききった構成の巧さがシェークスピアのストーリー・テラーとしての本領でもあるのですね。
  

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2007年10月24日 (水)

:歌舞伎に見る反権力 庶民の思想:

  シェークスピア劇『ヴェニスの商人』に見るようなユダヤ人差別、有色人種差別というものが、日本の歌舞伎ではどうだったのかと調べてみました。
  『摂州合邦辻』はライ患者(ハンセン病)の俊徳丸が主人公ですが、継母玉手に毒を飲まされ美しい顔が醜く崩れ、目も見えなくなってしまうという話しです。しかしそれは俊徳丸の美貌を強調するかたちで劇的効果としてライ病が表現され、差別的に描かれているのではありません。継母でありながら玉手は俊徳丸への激しい愛をぶつけていくというお話になっています。
  『小栗判官』も同じくハンセン病を扱っていますが、決して差別の物語ではありません。むしろ反対に深い情けをかける話しになっています。
  『毛剃九右衛門』はどうでしょう。縮れた赤毛で蝦夷の衣装を纏ってでてきます。明らかに“倭人”とは違う出で立ち。しかし、ここでも情の深い心温まる善人として描かれていて、彼が蝦夷の人間であることを見下した物語ではないのです。
 
  どうも歌舞伎の世界では遊女や盗人、悪人がたくさん出てきますが、あからさまな差別表現は無いといっても良いでしょう。身分差別の厳しい時代、これは一見不思議なことのように思えます。
  以前このブログでも取り上げた『被差別部落一千年史』(高橋貞樹)
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2005/10/post_633b.html にあるように、髪型から、服装も決められ、住まいも住居も小屋以外許さず、だからこそ今でも芝居には「小屋がけ」という言葉がありますが部落民は瓦屋根を許されていなかったからでもあるのです。江戸時代になると芝居小屋も火事の類焼など近隣への影響もあって瓦屋根が許されていくようですが、四条河原町で歌舞伎が始まった当初は「小屋」と呼ばれるようなところで芝居もされていたのでしょう。当時は居住地区も大概は夙(しゅく)と呼ばれる刑場や、城下町では城外、町の外れ、河原、峠、坂が部落民の住まう場所であり、公民の家に入るときは草履を脱ぐこと、往来も隅を歩き、公民とすれ違えば土下座するとあります。芸能者を「河原者」と言って近年まで蔑んでいた歴史がありますが、河原は刑場でもあり、穢れの場所でもありました。現在も河原には多くのホームレスの人々が住んでいますが、当時も被差別民は人里離れたそうした場所にしか住めなかったということもあるでしょう。
 
 身分差別がこれほど酷かったにもかかわらず、歌舞伎の演目で「差別」されていた実体が演じられていないのは何故か。不思議なように思えますが、実は不思議でも何でもないのですね。
  そもそも歌舞伎そのものの始まりは出雲の阿国の娘踊りとされています。念仏踊りが発展したものとも言われていますが、こうした見せ物の発祥自体が差別民であった人々の京都四条河原での芸能活動が始まりでした。つまり演じる側、役者も戯作者も演奏の囃子も歌も、すべて芸能に携わっていたのは差別されていた側の被差別民でした。それを考えれば、歌舞伎に差別的発言、罵りなどが無いことも、もっともなことだと思うのです。むしろ、反対に、くり返し演じられたのは『曾我兄弟』のような憎き親の敵討ちであったり、『忠臣蔵』のような“お上の理不尽さ”に反旗を翻す物語であったり、『勧進帳』の義経ように追われる者の物語なのです。こうした演目が支持され続けたのも、常に庶民側から見た権力と立ち向かい滅びゆく者たちへのへの哀惜の念、限りない同情があったからと言えるのでしょう。
 吉良邸への討ち入りで上総之介の首を討ち取れば、それを自分たちのことのように歓び、安宅の関を義経が無事通り過ぎれば胸がすくような安堵感を覚える。確かに極悪人や子殺しなど生々しい事件を扱った演目もありますが、善人を懲らしめるのはお上で、その憎々しさを打ちのめす快感が庶民の偽らざる心境であったのでしょう。拍手喝采で迎えられたのは権力と戦う義人であり、お上に抑圧される側の人間が、負けることも承知で、それでも立ち向かっていくという物語が受けたのでしょう。身分の厳しい時代、たとえどんなに理不尽であれ政府が決めたことであれば有無もなく従うのが庶民でした。
 まして「河原乞食」と蔑まれていた芝居小屋の人々は、一歩小屋から出れば、我慢と忍従の生活だったに違いありません。それはすべての庶民にも言えることで、下々の者たちに「怒り」があったとして、それを爆発させることは出来ませんでした。「一揆」や「唐傘連判状」など農民が結集して闘うこともありましたが、お上に逆らうというのは死をも覚悟することであり、『忠臣蔵』も『義経』も、死にゆくと分かっているからこそ、その決死の精神に庶民は胸打たれたのでしょう。
  歌舞伎の演目は常に痛めつけられ我慢を強いられる側、庶民の視点で書かれているからこそ、差別発言らしきものが一切無いと考えるのです。「弱きを助け、強きを挫く」、泥棒であるはずの白波も粋な若衆に仕立てられ、大泥棒の五右衛門も釜ゆでになったとき我が子を上に高く持ち上げる愛情深い父親として描かれ、鼠小僧は庶民の味方、「勧善懲悪」の「悪」は盗人ではなく、それを取り締まるお上となっているのです。
 
  だからこそ、それに対し、幕府は様々な理由で歌舞伎の上演を禁止したりします。『忠臣蔵』も『太閤記』もそのままは演じさせて貰えず、名を変え、時代を変え、咎めが無いように編集し直し上演し続けてきました。事件が起こると直ぐにそれが芝居になって演じられることも多かったようです。センセーショナルな事件が勝手に芝居となっていくことを政府は危うんだのでしょうか、山東京伝などは実際に町奉行で五十日の刑罰を受けたとあります。芝居は現在のテレビニュースのような働きもあったのでしょうね。
  政府の禁止事項は演目ばかりではなく、幕府は庶民の華美を嫌い、様々な禁止令を出したりしますが、役者の衣装までもが華美ということで罰を受けることもあったようです。郡司正勝氏の『鶴屋南北』(中公新書)によれば、役者の給与が高すぎてはいけなかったようで、また、他の差別民と同じで、役者も芝居小屋を一歩離れれば、服装、居住も制限されていたとあります。分限を守っておとなしく言うことを聞いていなければ、いつでもいろいろな理由をつけた取り締まりがあったのでしょう。華々しい人気役者たちであろうと、一旦舞台を降りれば厳しい監視の目があったのですね。

 
 中世日本の芸能に関しては、このブログ内【阿弥と浄土、芸能と宗教、非人の救済 】  http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2005/10/post_83a1.html  もぜひお読みになってください。 

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2007年10月28日 (日)

『竹取物語』が語るもの

Photo    西洋の物語がキリスト教の宗教的背景を考えないではいられないように、日本の物語にも何かそうした影響があるだろうか?  『聖書』の重要キーワードはアブラハムが息子イサクを生贄として捧げたように、「神」は信心の心を“試す”のです。何を“身代わり”として、何を得るのか。アブラハムの信仰が真実であると分かると「神」は子々孫々祝福を与えるというものであり、そこで「神」と「人間」の契約が成立するのですね。キリスト教での最大の「生贄」は人類の“身代わり”として昇天したキリストということになるでしょう。
  
 日本でも生贄の儀式は多くあったようで、その最古の記録として『古事記』には、八俣の大蛇に生贄として差し出されようとしていた櫛名田姫を建速須佐之男命(素戔嗚尊)が助けるという話しが書いてあります。その大蛇の腹から取り出したのが天皇家である御印(みしるし)である三種の神器「天叢雲劔(あめのむらくもの劔)」=草薙劔です。ここでは村を守るため、若い娘が生贄として差し出されるということになっています。
 『古事記』の中にはもう一つ生贄として、嵐の海で倭建命の皇后弟橘比賣は海神を鎮めるため自ら水中に身を投げる話しが載っています。後年まで、生きたまま人を埋める「人柱」の風習がありました。神の怒りをおさえるための御霊鎮め。「命」と交換に「嵐を静める」。こうした「生贄」の儀式は全世界的に古代信仰の中では行われており、西洋東洋変わりなくあったと言えます。
  では、この“身代わり”としての「犠牲」、「命」と交換に“得るもの”ということを考えながら、日本の物語を検証しようと『竹取物語』を再読してみました。
 
  『古事記』以降の日本の物語で一番古いと言われているのは『竹取物語』です。シェークスピアの『ヴェニスの商人』に出てくる「婿取り譚」と同じ、たくさんの求婚者をつれなく振っていく話しです。『ヴェニスの商人』ではモロッコの王やアラゴン王等がポーシャに求婚するのですが、彼女はその肌の色が気に入りません。明かな人種差別発言が出てきます。(これはぜひ以前書いた【シェークスピア『ヴェニスの商人』】http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/10/post_fecc.html を読んでください。)
  かぐや姫はどうなんでしょうねえ。差別発言は出てきませんが、最初から嫁に行く気は無いのです。そこで求婚者へ数々の難題を差し出します。    では先ずこの二つの「婿取り憚」の中で、何が最も大切なテーマになっているのか見ていきましょう。
  『ヴェニスの商人』のポーシャの婿選びは彼女がそのような条件を出したものではありませんでした。莫大な遺産を相続した際の条件が「金の箱・銀の箱・鉛の箱」を相手に見せ選ばせ、その中にポーシャの肖像が入っていればその人物が夫となるというものでした。誰が何を引くかは分からないので、この場合ただ運を天に任せるしかありません。(一体それにはどんな意味があるのでしょうね。)
 『ヴェニスの商人』の中のバサーニオの台詞に『So many the outward shows be least themselves:The world is still deceiv'd with ornament. 』(外観とは中身と違う事が多い。世間は虚飾に欺かれる。)とあります。
  実は面白いことに、シェークスピアは「宗教」も「裁判」も同じで、だから異端の邪宗も邪悪な外観を隠して、もっともらしき説教をすれば正しい宗教に見えてしまう。弁舌が優れていれば、裁判も欺かれると語らせているのです。
『You that choose not by the view, Chance as fair and choose as true.』
  外見だけで選ばないで、正しきを選ぶ。しかしこれをどう解釈したらいいのでしょう。バサーニオのように無一文の財産無しの男でも“心根が立派”ということを言いたいのでしょうか。「鉛の箱」を選んだバサーニオが彼女を射止めるのです。
  これを見て思ったことですが、同じシェークスピアの『リア王』の中で、王が娘達の愛情を試し、上の二人の娘達の甘言に乗って、何も言わなかった末娘のコーデリアには財産を与えず勘当します。ここでも「うわべだけの言葉」と「言葉には表されない真実」ということが重要なテーマとして出てきます。「真実」は表層的なところだけでは見えないというのが『ヴェニスの商人』や『リア王』に貫かれている精神と言えるでしょうか。
 フランス王がコーデリアに求婚する場面があるのですが、何も相続せず無一文になったコーデリアに対し、これでこの求婚が金目当てのものではなく真実の気持ちからの求婚だと分かって貰えると、フランス王が歓ぶのです。
  「金」や「銀」「財産」という虚飾に惑わされるな。「弁舌」の雄弁さに誤魔化されるな。表面には現れないけれど隠された真実を見極めること。どうも選択の基準はそこにあるようです。欲張りなほど「金」を選び、そのような表面だけで判断する「男」は夫に相応しくないということなのでしょう。キリスト教的な「禁欲」を善とし、「欲望」を悪とする道徳思想がよく現れています。

  かぐや姫はどうなんでしょうねえ。差別発言は出てきません。金銭、財産の話しも全く出てきません。ではかぐや姫はどういった道徳基準で、何を規範として夫を選ぼうとしたのでしょうか。
 けれど、そもそも最初から彼女は嫁に行く気は無いのです。ただ再三の翁の求めもあり、いかに断る口実を設けることができるのか、思案のあげくが求婚者への無理難題でした。彼女は最初から自分の意志で結婚を断っています。
 娘は親の言うことを聞いて嫁いで行くというのが当時の一般的な在り方だったでしょうから、これは例外的なことと思われます。翁の言葉に『をのがなさぬ子なれば、心にも従わず』とあります。自分の娘ではないから強いことも言えないと言っているのですねえ。
 一方、かぐや姫は自分は変化(へんげ)=異界の者であって、それを知らないで結婚したら後悔するかもしれないのに、と思いつつ、『深きこころざしを知らでは、あひがたしと思う』と、求婚者たちの「こころざし」を知りたがります。ただ、かぐや姫の指定した物を持ってくればその「こころざし」は知れたのでしょうか。
 石つくりの皇子(みこ)には「佛の御石の鉢」、くらもちの皇子には「蓬莱の銀(しろがね)を根とし、金を莖とし、白き玉を實として立てる木、一折り」、今一人には「唐土にある、火鼠のかはぎぬ」、大伴大納言には「龍の首に五色に光る玉」、いそのかみ中納言には「燕(つばくらめ)の持たる子安貝ひとつ」。
 彼らはすべて姑息な手段を使ってニセモノを用意したり、恥ずべき人間ばかりなのですが、持ってきた物がニセモノかどうかまだ確かめられない時、かぐや姫は『我は皇子に負けぬべし』と、ここでひじょうに強い意志を示しています。結婚話と言うより、どうも闘いに挑む心境のように描かれているのです。ニセモノと分かると『あなうれし』と喜びます。 

 結局五人の求婚者たちは皆、ろくでもない者たちばかりだったということになりますが、それで話しは終わらなかったのですね。どんな智恵を絞ろうと、絶対に拒めない相手からの求婚話しが舞い込んできます。御門=帝(みかど)です。彼女がいかに美しいのか、評判通りかを確かめるため、内侍が御門の使いとして来て、かぐや姫との対面を求めます。
 しかし彼女は普通の人間ではありませんから、とても会えないと思っています。結局内侍は顔を見ることさえできません。そこで内侍は『必ず見てたてまつりてまいれ、と仰せ事ありつるものを、見たてまつらでは、いかでか帰りまいらむ。』と、「国王の言うことを、この世に住む者で聞かない者はいない。」と言い放ちます。御門の使いをないがしろにすることは絶対許されないことでもありました。
  『国王の仰せごとを背かば、はや殺し給ひてよかし』という言葉が出てきます。他の五人の求婚者とは違い、御門の要請には断りきれないのですね。「死」という言葉がでてきます。
 彼女の「死」=月への昇天は、一体何を意味するのでしょう。彼女は初め五人の求婚者の「深きこころざし」を見極めようと難題を出し彼らを試しました。それは「鉛の箱」に秘められた、目には見えないけれど“真実のこころ”を求めていたようにも思えます。ところが有無を言わせない絶対権力、御門の前では彼女は何も試すことができません。御門がどのような「こころざし」であろうと、彼が「金の箱」「銀の箱」を選ぶ人間であろうと、選択肢は一つ、迎えが来ればそれに従うしかないのです。自分を守る唯一の手段は「死」しかなかったのですね。
 
  『竹取物語』は神話や史記とされているものを除いて、現存する日本の最古の「物語」と言われています。ここでかぐや姫が月世界へ帰ること、「死」を選ぶことは一見「弱さ」のように見えますが、それは歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』に描かれたような、「大儀」のためには「死」をも辞さない志士たちの心意気と同じであり、「死」を選ぶということは、日本の場合キリスト教のように自殺が「罪」という考えはないので、「大儀」による死以外でも、心中ものや義経の逃避行に見るように“死に行く者の美”ということが描かれることが多いです。
 かぐや姫の場合も彼女の「死」は、主君に仕えるという忠孝の「義」でもなく、反対に“我が儘を押し通した”と見えないこともありませんが、 “意にそぐわない結婚は絶対にしない”という、自己に忠実に生きる潔い決意だったとも言えるでしょう。 「死」も厭わず自己の信念を貫き通すことが、彼女の「義」だったのです。
  それにしても、このかぐや姫の強い意志に驚かされます。これは不思議なことに思えますよね。というのも、多分そのような「自己」に目覚める強い意志を持った人格は、平塚雷鳥をモデルにした『煤煙』や宮本百合子をモデルにしたとされる野上弥生子の『眞知子』など、明治以降の近代文学になって日本の小説に登場した新しい女性像と思われるからです。ところが、なんともはや、日本の最初の「物語」に既に存在していたのですね。
 “身代わり”としての「犠牲」、「命」と交換に“得るもの”ということで言えば、かぐや姫は自らの「命」と引き替えに「自我」を貫き通したとも言えるのでしょう。当時はそれほど無理矢理させられる結婚が多かったということかもしれませんが、それを自らの意志で拒むという、『竹取物語』はおとぎ話の世界とは思えない、とても特異な物語が描かれているのかもしれません。
  
 

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2007年10月30日 (火)

『とはずがたり』が語るもの

Photo     『竹取物語』のかぐや姫は意に添わぬ結婚を頑なに拒否したことによって「死」を選び、天界に帰っていきます。月に帰ること、すなわち「死」を選ぶことで、彼女は健気にも最期まで意志を貫き通しました。どんな女性であろうと、この時代、御門(帝)の求めに応じないということはあり得ません。帝の使いの内侍が、「国王の言うことを、この世に住む者で聞かない者はいない。」http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/10/post_5647.html と言い放ちますが、だからこそ、かぐや姫は「命」と引き替えに、自らを守ったのです。
  しかし、これはあまりに希有な話しと言っていいかもしれません。厳然たる身分の中で生きていた貴族社会では、帝の意向は絶対であり、娘を嫁がせる側の家臣にとっても、帝から請われれば、それは「双六」の“あがり”、それ以上の上は無いことを意味しました。娘をいかなる家に嫁がせ姻戚を結ぶかは、家の一大事であるし、嫁に出さずとも、宮仕えそのものが誉れでもありました。まして運良く帝のお手つきになることは家の栄華栄達にも関連する最も目出度き事であったのです。何があろうと、娘を帝に請われて断る者などいないのです。帝が気に入れば、当然その言いなりになるのが常でした。自分の意見など何も言えるはずもないのです。
 
  『とはずがたり』は、かぐや姫とはまったく反対の、言い寄られたら関係を全部持ってしまう、当時の女性の生き方を最もよく表した告白録とでも言ったら良いでしょうか。
 何故か不思議なことにこの本はずっと宮内庁書陵部の奥の奥の資料の中に秘められていたものでした。永い間秘匿にされていて、そのうちに忘れ去られてしまったのかもしれません。この作品が宮内庁書陵部で発見されたのは太平洋戦中のこととて、作品として公に発表されたのは戦後の昭和二十五年のことであったということです。不思議なことがあるものですね。まだ発見されてから新しいのです。
  『土佐日記』に始まり、『紫式部日記』や『蜻蛉日記』のように日記文学は日本の文学史上重要な位置を占めています。数々の日記が残されていることで、当時の貴族社会の形態や、人々のこころの有り様なども分かることができるのです。「物語」と共に、時代を経ても読み継がれてきた日記。では一体何故、この『とはずがたり』だけは読まれもせずずっと書庫に眠ったままになっていたのでしょう?  
   これは鎌倉時代中期、後深草院の寵愛を受けた後深草院二条という女性の告白録です。宮仕えをして帝や皇子からの寵愛を受けた女房の話であるなら、他にもあります。『和泉式部日記』などはその代表例でしょう。一条天皇の代、為尊親王の愛人であった和泉式部は親王亡き後、弟敦道親王からも言い寄られます。その贈答歌でのやりとりが作品になっていますが、こうした婚姻とは結びつかない恋愛は珍しいことではありません。むしろ、宮仕えの女性はどこかしこで常に言い寄られていたと言ってもいいのです。『紫式部日記』の中にも訊ねてきた関白大臣藤原道長が彼女の臥所の戸を叩く場面があります。これは驚くべきことではなく、男達が宮中で働く女官に言い寄ることは日常茶飯事普通にあったことで、戸締まりがしてあったからたまたま紫式部の部屋には入ってこれなかっただけで、日本の家屋は襖で仕切られているだけのところが多いですから、そのまま入ってこられれば押し切られ、関係を持ってしまうということも多かったのです。
 ですから、この『とはずがたり』の主人公二条が様々な男と関係を持つことはさほど驚くことではありません。当時の男女はひじょうに自由であったことを考えれば、何人もの男と関係を持つこの二条も珍しい存在では無いと思うからです。むしろ、この『とはずがたり』のみ読み継がれることなく、永い間しまい込まれていた理由は、あまりに赤裸々に彼女が男性遍歴を語っているからではなく、むしろ、この物語の特異性が後深草院の異常性愛、変態的嗜好にあったのではないか? 彼の二条への扱いが当時としては普通のことだったかもしれませんが、その後の世の性道徳に照らし合わせて考えれば、衝撃的すぎて教育上、子女達に読ませる内容として相応しくないと判断されたためではないか、と思える内容なのです。

  かぐや姫が五人の求婚者の誰もを拒んだのとは違い、言い寄る五人の男の誰をも受け入れた二条という女性。どうも後深草院は『源氏物語』を真似て、幼い頃から二条を将来自分の愛人にしようと育てるのです。ですから示し合わせたように十四になった時、突然院は彼女の元を訪れ、自分の女にしてしまいます。もともと後深草院は性を知る年齢になった時、二条の亡くなった母に最初の手ほどきを受け、二条の母が最初の女性であったため、ひとしお深い愛情を抱いていました。その忘れ形見の二条を幼い頃より可愛がっていたのですね。
 父である大納言にすれば願ったり叶ったりのことでしょう。帝に請われ断ることなど露ほども思いません。彼女には教えずいそいそと院を迎える用意をします。彼女は不思議に思い、どうして家の中ばかりか、彼女の部屋までしつらえを新にするのか疑問に思うのですが、誰も教えてくれません。寝ている間に院が入ってきて一日目は彼女が泣いてばかりなので仕方なく院は帰るのですが、二日目には強引に衣服も剥いで犯すのです。
 しかし、これがきっと貴族の娘達の普通の運命だったのでしょう。ただ彼女はよほど美貌の持ち主であったのでしょう。言い寄る男は院ばかりではなかったのですね。別な男性からも求愛され、高価な着物などを贈られたりしています。院の愛人となっても、その「雪の曙」と呼ぶ人とも関係を持ちます。
  一方、院は院で異母妹の姫宮にも手を付けようと、その際は二条に手引きを求めるのです。古代「妹(いも)」「兄(せ)」という言葉には「妻」「夫」という意味もあったくらいですから、現在では考えられないことですが、鎌倉時代になっても、異母妹との関係が普通にあったのかもしれません。しかし、いくら女好きだからといって、一夜限り弄んで、その後はどうも気に入らなかったのか逢いにも行かないというのでは、女性は泣き寝入りするしかないのです。
 二条は二条で院と「雪の曙」の二股をかけている女性ですが、有名な高僧も彼女に言い寄ってきて、関係を持ち「有明の月」などという渾名(あだな)をつけます。「雪の曙」といい、「有明の月」といい、一応彼女は後深院の愛人ですから、浮気相手を本名で語ることはせず、そうした渾名で呼ぶのです。この「有明の月」からも最初は無理矢理犯されたような形になっていますが、次は自分から出向き毎夜逢瀬を重ねます。この「有明の月」という高僧は、今で言えばストーカーのようなシツコイ人なので怨念脅迫文まがいのラブレターも送ってくるのですが、ズルズルと関係を持ったりします。
 何人もの男と関係を持つのですから、当然子供ができます。が、当時の常識として正式な結婚で生まれた子供では無いですから、夫婦して育てるということはできません。それで、子供らは生まれるとすぐ父方に引き取られていくのです。「有明の月」の二度目の子供のみ、彼が死んで引き取り手がなかったので彼女が育てますが、何人子供を産もうが、子供はどこかへ引き取られていってしまいますから、彼女は子供のいない若い女性と同じような暮らしぶりをしています。
  ある時酒宴で後深草院が酔いつぶれ、彼女は「雪の曙」の寝床へしのび込みます。大胆ですよね。ところがその帰り、廊下で他の男性から手をひっぱられ、犯されそうになります。その場は逃れますが、翌日またその近衛大殿が、院といっしょにいる二条を部屋の外から呼ぶのです。すると、こともあろうに院は『行ってやりなさい』というのですね。院が耳をすましている隣の部屋で二人は抱き合います。翌日もまたやってきて、同じように院が聞き耳を立てている隣の部屋で関係を持つのです。これは、どうなんでしょう? 院の命令だからなのでしょうか。彼女から断るということは無いのですね。
 また別の日、後深草院の娘姫が病状思わしくなく、高僧である阿闍利「有明の月」が御所にやってくると、二人の関係が院にもバレ、しかしこの時も院は『行ってやれ』と、彼女が「有明の月」と関係することを許すのです。姫の病気が平癒するまで毎晩阿闍利と二条は寝て、院はそれを黙認するのです。
  ところがそれだけではなかったのです。後深草院と弟の亀山院が一緒に泊まる部屋の宿直(とのい)が命ぜられた時、弟亀山院からも体を求められるのです。この時は同じ部屋ですからねえ。翌日もまた同じように兄弟両院に添臥するのです。さすがにこの時は、『のがるるところなくて宮仕ひゐたるも、いまさら憂き世の習ひも思ひ知られはべる』と嘆いています。彼女は妊娠中でもあったのです。
  
  院にとって二条は何だったのでしょう。部下が所望すれば差し出してやる。襖一つ隔てたところで二条が他の男に抱かれていたとしても黙っている。同じ部屋で弟と共に抱く。何でも自由になる帝の位であれば、女など選り取りみどり、皇后や中宮など、一応位もある「妻」的立場の女性とは違い、もともと女官など宮仕えの女たちの扱いは遊女並なのかもしれません。自由に弄び、飽きてしまえば捨てる。二条もそれ以後勤めを解任されてしまうのです。
 『とはずがたり』とは、「人に問われてもいないのに語ること」という意味で、彼女にしてみたら、そのようなあまりの仕打ちを語らずにはいられなかったのかもしれません。居並ぶ男が皆言い寄るのですから、彼女はきっと男にとってセクシーでとても魅力ある女性だったのでしょう。けれど「妻」にするほどの高貴な家に生まれたわけではなく、一介の宮仕えの女官にすぎません。その若さがなくなると同時に御用済みとなってしまったのでしょう。
 でも、これは彼女だけの特殊な物語でしょうか? 後深草院のみが自分の女を他の男と共有する異常な性愛嗜好を持っていたのでしょうか? むしろ女に対する考えが、単なる慰めもの、性的対象の愛玩物、だからこそ兄弟同時に同じ部屋で彼女を代わる代わる犯していくこともできたのではないでしょうか。「下し物」として、簡単に配下の男にやることも厭わなかったに違いありません。

 彼女はこの後出家し、西行を真似、全国を放浪する旅に出ます。「問われなくても、書かずにいられなかったこと」とは、そうした“女”としての無常な、“のがるるところのない定め”だったのかもしれません。
 かぐや姫がいっそう光り輝いて見えるのは、そうした“定め”をヨシとせず、きっぱりと拒絶、あくまでも屈せず、「死」と引き替えに“清らかさ”を選んだからでしょうか。
 

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