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2007年11月 5日 (月)

『西行物語』が語るもの

   職業選択の自由など全く無かった時代、『蜻蛉日記』藤原道綱の母や『更級日記』の菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)のように中流の家の娘たちは、誰かの嫁になるか、宮仕えをするか、そうした生き方以外の道などありませんでした。『とはずがたり』に描かれた後深草院二条
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/10/post_b3d7.htmlのように、若い内はもてはやされて引く手あまたであった女性も、年増になって美貌も衰え、庇護されている男性からの寵愛を受けなくなれば、素っ気なく解雇されてしまう事も普通にあったことと思われます。
 父親であろうが、夫であろうが、愛人であろうが、女性は誰かの庇護に縋って生きるしかありません。意に染まぬ結婚をし、夫の愛人関係に悩まされ、子育てを生きがいとする藤原道綱の母、出家する菅原孝標女。日本物語の中ではよく「出家」の話しが出てきますが、不本意であろうと世の定めに従って生きるしかなかった女性達は、せめて出家することによって、俗世の悩みからも解放され、人生の終末を御仏の元でこころ安らかに生きることを願ったのでしょう。
 数々の男と関係を持ち、自由恋愛を謳歌したかに見える後深草院二条も院から見放され、宮務めが終われば出家するしか行き場所が無かったように見えます。自から好きで男達の相手をしていたと思われる二条でさえ、『のがるるところなくて宮仕ひゐたるも、いまさら憂き世の習ひも思ひ知られはべる』という言葉を残しています。すべては院の意向であって、イヤとは言えなかったというのが本音だったのでしょう。

  では一方の男性は? 栄華栄達ばかりが男の夢とも限りません。男たちもまた、どんな家に生まれようと出自に縛られ、簡単にイヤとは言えない宮仕え、他のどんな生き方も許されないのです。世の定めに従って生きるしかありません。しかし現代人が悩むように、どんな世であれ自分の生き方がこれでいいのか悩むのが人の常なのでしょう。男子と言えども、出世欲のある野心家ばかりとは限らないのです。
   
   何事にとまる心のありければ
   さらにしもまた世のいとわしき

 
 1140年、数え二十五才(現在の年齢で言えば二十三)という若さで、妻子もありながら突然「出家」したいと願った西行(佐藤義清)。彼もそんなひとりだったと言えるでしょうか。ひじょうに有名なエピソードとして出家の心絶ち難き故、かわいい娘が慕って西行に駆け寄る場面で、その幼い娘を蹴飛ばすという話しがあります。
 『西行物語』というのは後世の誰かが西行の歌を元に綴った物語ですので、一体どこまでが真実でどこまでが脚色されたものなのか定かではありません。しかし、ここでは一応書かれた内容に添って話しを進めていくことにしましょう。出家前の西行が娘を蹴落とす話しは余程衝撃的であったのでしょう。絵巻として残されているものには必ずその場面が描かれています。こうした逸話が、物語を劇的にするために勝手に作者が挿入した作り話とは思われません。『平家物語』でもそうですが、現実にあった事件であるからこそ、見てきたように語り継がれてきた物語というものがあると思うのです。出家までの西行の様子は絵巻に書かれた内容でほぼ間違いないのではないかと思われます。
 突然の出家といい、娘の逸話といい、唐突で衝撃的であったからこそ、ずっと語り継がれたのではないでしょうか。西行の場合は詠んできた歌がありますから、出家後の足跡はほぼ忠実に描かれていると考えてよいでしょう。

  彼の歌の才能は鳥羽院からも覚え目出度く、周囲を羨ましがらせていました。ところが親しくしている同じ北面の武士である佐藤左右衛門尉憲康は悩みを持っている青年で、このまま生きてどうなるのか、自分の人生に疑問を持っていました。西行に悩みを相談するのですね。妻や老いた母がいるのに、世の中のことが夢幻のように思え、「出家」したいとうち明けるのです。生きていることに現実感もなく、今で言えば“鬱”状態にあったのでしょう。翌朝西行が憲康を迎えに行くと、昨晩のうちに死んだことが分かりショックを受けます。

   世の中を夢と見るるははかなくも
   なほ驚かぬわがこころかな


  西行は憲康の死に衝撃を受けますが、世の中を儚しと見る心境に驚かない、と歌っているのですね。西行は憲康の心の内を我がこころと重ね合わせ、ますますこの世を憂しと考えたのでしょう。父の元へ慕い走り寄ってきた娘を蹴落とすという話しは、ここで出てきます。彼は出家の決意を妻にうち明け、自ら剃髪し、家を出ます。
  妻や子がありながら、世を儚んで出家する。しかしそこを踏ん張って仕事をし妻子を養っていくのが夫たる父たるものの責任とも思うので、老年になって出家する場合と違い、自分のことだけ考え妻子を捨て出家してしまう西行は身勝手な男のような気もします。生きているということは、辛いことの方が多く、ほとんどは自分の思い通りにはならず、反対にイヤなことばかりが降りかかってくるものです。人生は意に添わぬことばかりが多く、しかし生きるとはそうした全てを受け入れ甘んじることでもあります。
 そう考えるなら、自分ひとり出家してしまうというのは男として夫として、まして父親としてあまりに無責任なような気がします。一体どのような心境が彼を出家に駆り立てたのでしょう。

  サッカーの中田英寿がW杯後“自分探し”の旅に出たことで世間を驚かせましたが、西行の出家も突然で当時の人を困惑させたのでしょう。人は誰しも今居る“ここ”が本当の自分の居場所なのか迷います。家族や友人、教師や上司、人間関係でも煩わしいことばかりあって、今居る場所から逃げ出したいと思います。けれど自分の思い通りにならないのが人生で、“どこかに”行けば自分の探す桃源郷があるのではありません。太陽を巡る惑星のように「世間」も自分にくっついていつまでも廻っているものなのです。生きている限り“どこ”に行っても同じなんだと、“ここ”という今居る場所を受け入れ、それを自分の現実とし、後はいかに自分の中で変化させていくかということが“大人になる”ということかもしれません。けれど、若い内はバックパッカーになり、小田実ばりに『何でも見てやろう』と放浪の旅に出たいと思います。チェ・ゲバラhttp://saturniens.air-nifty.com/sennen/2005/11/post_6c9c.html だってそうでした。彼がその“自分探しの旅”で見つけたのは、貧しい山岳の住民や隔離され自由を失われたハンセン病の患者たちでした。医師になってエリートコースを歩む道を捨て革命に生きるのも、その旅が始まりだったのですからね。“今”を捨てたいと願い、何かを打開したいと考えるうのは万国共通の人の想いとも言えます。 
 
  西行の当時の職は、佐藤左右衛門尉憲康と同じ「左右衛門尉」と思われます。これは「左右衛門大尉」が従六位でありますから更に下、いわゆる宮中に上がる高級官職である「殿上人」ではありません。つまりどれだけ役職に励んだところで従六位止まり、もし彼が役所勤めを全うしたところで、「従六位」が彼の登りつめる最高位だったのですね。官位では五位までが殿上(昇殿)を許された人で、蔵人のみが六位でも特に昇殿を許されたとあります。つまり西行は最高位の「左右衛門大尉」になったところで、昇殿は許されない位置にいたのです。
 北面の武士のみ直属の護衛官だったという見方もありますが、身分がすべてものを言った時代、これでは世を儚みたくなるかもしれません。まして西行は歌が上手いということで鳥羽院からもお声がかかるほどです。しかし自分のみが殿上人ではないのに、殿上人と交って華やかな宴に出席する。身分の高い貴族に混じって歌を読むこともかえって憚れることだったのかもしれません。
 『西行物語』では、出家前の西行(義清)がわざときらびやかな衣装でそうした場に出ていくことが書かれています。本来なら位が下で、そのような場に呼ばれるはずも無いのに、歌が上手いということで特別な扱いを受ける。せめても殿上人の華々しさに負けないよう衣装だけは豪華に仕立てたものを用意して出向いたのでしょう。佐藤家は富裕であったと言われております。しかし衣装のみ殿上人に負けぬ、それ以上のものであったとしても、居心地の悪さを感じたのかもしれません。光栄であると同時に、そこが自分の場所ではないことを思い知らされたことでしょう。
 その鳥羽院の宴が終わって直ぐ西行は頭弁殿を介して院に「出家」を申し出るのです。駆け寄る娘を蹴飛ばしたのは、その日のことです。ここに西行の心境が現れているのではないでしょうか。

    世の憂さに一方ならず浮かれ行く
    心とどめよ秋の夜の月


  歌を誉められ、つい浮かれて院の宴に招かれて行った。佐藤家一族喜んで、華やかな衣装も付けて赴いた。しかしこの時、秋風のような侘びしさが西行の胸を捉えたのではないでしょうか。宴に出席したことで、それまで彼の中で漠としていた憂いが、はっきりとした「出家」という決意となったように思えます。
 出家の理由については、去る高貴なお方に恋をして失恋したためという説もありますが、それは後世の人が分かりやすい理由として想像しただけで、そのようには思われません。何となく世の中がイヤになった。世を儚んでというのが一番の理由だったのではないでしょうか。しかし、そうして自ら願い出た出家の道でしたが、きっぱりと世の中のことと縁が切れたかというとそうではありませんでした。絶ちがたい思いが去来する。

   世を捨つる人はまことに捨つるかは
   捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ



  世を捨て出家したけれど、出家したから世を捨てたとは言い難い、出家の前の方が世を捨てていた心境だったのかもしれないと思ったのでしょうね。西行の歌を見ていると、全般にとても素直に心境を語っているように思います。望んで出家したものの、出家した当初は戸惑いも多かったのでしょう。都での生活や家族への思いもまだ絶ちがたいものがあったのでしょう。

   さびしさに耐へたる人のまたもあれな
   庵並べむ冬の山里


  同じように世を捨て出家した人と庵を並べている時、少しは心が落ち着いたのかもしれないですね。けれど桜の咲く頃、ついでだからと、昔の知り合いがどやどやとやって来たようです。相手は西行が元気でやっているかどうか心配して訪ねて来てくれたのでしょうが、西行にすれば、せっかく世を捨て山里に居てこころが落ち着いたかと思っているのに、またこころが乱されるのです。

   花見にと群れつつ人の来るのみぞ
   あたら桜の咎にはありける 


  西行は初め洛西大原野の勝持寺で出家し、その後嵯峨野や鞍馬、高野山、吉野などいろいろな所を転々として修行をしていたようです。思い描いていたほど、出家後の暮らしに平安が訪れたわけでもなく、このような歌も詠んでいます。

   鈴鹿山浮き世をよそにふり捨てて
   いかになりゆく我が身なるらむ


  世を捨て出家したものの、一体自分はどうなるんだろうか、と漠とした不安を抱いていたようですね。時には都で親しくしていた人を思い出したりして懐かしむ歌を詠んだりもしています。もしかしてそれは別れてきた妻かもしれないし、自分を評価し重用してくれた鳥羽院のことを思い出していたのかもしれません。出家したからといって全部の思いも捨てきれるものではなかったのでしょう。情もある生身の人間ですから、なお後ろ髪をひかれる思いもあったのでしょう。

   月見ばと契りおきてしふるさとの
   人もや今宵袖ぬらすらむ


   紅葉見て君が袂やしぐるらむ
   昔の秋を思ひ出でつつ


  もとの生活に戻ろうとは思わなかったでしょうが、出家前の生活を懐かしむ歌を多く詠んでいるようです。『西行物語』には昔別れた妻もその後出家、例の廊下で蹴飛ばした娘は冷泉院の御局の養女になり、冷泉院の女房として仕えていたのですが、再会したその娘に西行は仏門に入る事を勧め、彼女は授戒し出家した母と共に暮らしたことが書かれています。

  月を見てこころ乱れしいにしへの
  秋にもさらにめぐり逢ひけり

   
  若さは直に老い、人の世の命は夢まぼろしの如き儚いものであればこそ、来世、仏門に入った妻や娘を極楽浄土で迎えようと西行は言っています。

  出家し歌詠みの世界に入ったことで身分には囚われることなく、藤原俊成、定家親子との親交や歌会などにも招かれて歌を詠んだり、自ら歌会なども主催し、歌人としての名声は得ることができました。西行の歌が現在も数多く残っているのもそうした親交あればこそと考えられます。けれど彼の一生を見ていくと、出家したからといって悟りを開き人生に達観したかと言えばそうではありません。むしろ、自身の生き方に納得したとは思われません。最期まで悩み迷い、こころは揺れ動いていたのではないでしょうか。
 極楽浄土で娘を迎えると約束したように、現世では得られなかったこころの“居場所”を死後の世界に求め、そこに望みを託していたように見受けられます。西行の心にありつづけた寂しさのようなものは、そのせいだったのではないでしょうか。
 仏門に入ったからといって、そのまま真っ直ぐ厳しい修行を続け名高い高僧になるのではなく、旅を続け、追い続けて追い続けてもついぞ答えを得られない、その迷いの中にこそ人間としての真実があったように想います。
  
  願わくは花の下にて春死なむ
  その如月の望月のころ
  
  今も昔も生きることは難しいことですもんね。
 
 
  
 
 

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2007年11月 8日 (木)

芭蕉『奥の細道』

  『奥の細道』とは西行が歩いた奥州への旅、歌枕をなぞる芭蕉の旅でした。西行の亡くなった1190年から数えて没「五百忌」、芭蕉は西行が平泉へ向かったと同じ行程を歩くのです。深川から終焉の地大垣まで総距離2340キロ、日本列島が上から下まで約3000キロと言いますから、『奥の細道』はその三分の二以上を歩いたわけですね。
  芭蕉が古来の名所「歌枕」が詠まれた地に憧れ、天命とまで感じ旅を決意するのは西行の存在が大きかったのですが、その西行の実家と平泉とは遠い姻戚関係にあったようで、西行は義経の死を悼んで奥州への行脚に向かったとも言われています。平清盛とは同じ北面の武士だったと言われていますし、出家後西行が鞍馬にもいたことを考えるなら、鞍馬寺に預けられていた義経とも何らかの接点があったのかもしれません。俳人石寛太氏によれば、西行は清盛との親交もあって厳島神社を訪れたり、清盛に高野山の税軽減を求めたりもしたそうです。
 西行にいたく傾倒し、奥州への旅に出た芭蕉。しかし、これは有名なことですが芭蕉に同行した曾良の日記と『奥の細道』に歌われた内容とは大きく違い、芭蕉が書いた『奥の細道』は純粋な旅日記というものではありませんでした。では何だ? と言われれば、芭蕉が創り上げた“文学作品”と言った方がいいのでしょう。
  以前このブログで【『江戸の旅文化』神崎宣武 岩波新書】 
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/03/post_6443.html を取り上げましたが、江戸の人口が千八〇〇万人の時代、年間五〇万人もの人が伊勢参りに向かったとありまして、お伊勢参りや善光寺参りのように、神社仏閣信仰のための旅は比較的ゆるやかに許されていたのでしょう。またこの本には旅の必携品として日記帳などが書かれていましたから、曾良の日記が残っていたのも、この当時の人が旅に出れば日記を付ける習慣があったからなのでしょう。けれど、『奥の細道』は芭蕉が自分自身の旅の記念として残しておくために書いたものではありませんでした。“作品”として練り上げられた、文学としての紀行文だったのですね。

 
 芭蕉が奥州へ旅に出た時代を見てみると、

 1644年 芭蕉誕生

 1673年 越後屋呉服店
       市川団十郎 江戸歌舞伎

  1680年 深川 芭蕉庵
 1682年 井原西鶴『好色一代男』
 
 1685年 「生類憐みの令」

 1689年 3月 芭蕉深川を出立
 
 1694年 江戸十組問屋を結成。
     芭蕉『奥の細道』


  江戸ではすでに五代将軍、天下太平の時代になっており、越後屋や江戸十組問屋ということを見ても、かなり経済的発展があり、団十郎歌舞伎が人気を博し、井原西鶴が『好色一代男』を表し、庶民文化が花開いていたことがうかがえます。「生類憐れみの令」にしたって動物をペットにできる余裕があればこそだったとも言えますからね。庶民も旅を楽しんでいたのでしょう。
 とはいえ、「伊勢参り」「善光寺参り」が物見遊山であっても本来の目的は「お参り」という信仰上の理由があったからで、「お参り」が終われば行って直ぐ帰ってくるというものでした。芭蕉のように“野ざらし”になってもいいと、悲愴な覚悟をして出かけるような旅ではありません。伊勢や善光寺への道は整備され、お金のある人はある人用に、お金の無い人でも素泊まりができるような、無いなら無いで野宿もできるという、宿場宿場に用途別宿が用意されていましたから、それだけの悲壮感は無く、皆安心して伊勢や善光寺に出かけていたのでしょう。
 片や、奥州への道のりは整備されていたわけではありませんから、それだけ芭蕉の旅は大変だったのでしょうし、庵をたたみ死をも覚悟して出かけたとあれば、何かとても奥深いものを感じます。人生の終末を迎えた老人の遁世の旅、日本人の無常観と相まって、ひじょうに枯れた「侘び」の印象を受けます。
 ところが『奥の細道』の旅そのものの性質は修行僧が厳しい修験の旅をするようなものでもないし、どちらかと言えば、現代人と同じ様な旧跡めぐりの観光旅行とも言えます。埴谷雄高がドストエフスキーの作品の『罪と罰』のラスコリーニコフの足跡を忠実に辿った旅日記がありますが、「シェークスピア劇の舞台を巡る旅」とか、「『嵐が丘』を巡る旅」とか、文学好きなら一度は訪れてみたいという憧れの場所巡り、それが芭蕉の「西行めぐりの旅」だったかと思います。ですのであくまで西行が詠んだ歌が元となり、本歌取りの様相で『奥の細道』は進んでいきます。

  『とはずがたり』の後深草院二条http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/10/post_b3d7.htmlも出家後“女西行”と言われたように、西行を偲んで同じように日本全国各所を巡り歌を詠んだりしています。そして西行が江口の遊女と出逢ったというエピソードと同じように、二条も旅の途中で遊女と交わる場面で歌を残しています。で、なんと、芭蕉もまったく同じようにやはり、旅の途中で出会った遊女のことを書き記すのです。
    
    (芭蕉)ひとつ家に遊女も寝たり萩と月

 
 西行は旅の途中遊女がいるような宿でしたが、激しい雨の中泊まるところが無くて一夜を求めたところ、遊女に「出家した人を泊めるわけにはいかない」と断られるのです。そこで西行が歌を詠み遊女が返歌するという歌の贈答があり、それが記念碑となって残っていますが、そのエピソードのように、後深草院二条も旅に出て遊女たちとしみじみ語り合う場面を書き残しています。やはり芭蕉も同じように遊女と同じ宿になったことを書き記す。
 いやはや、これではまるで、旅に出た以上は遊女に出会ってこなければ「西行めぐり」の本物の旅ではないような雰囲気です。けれど、実はこれだけではないのですね。『奥の細道』全編を貫く芭蕉の熱烈ファン心理というものが、そこかしこに現れ出ているのです。
 西行がしたと同じように、「ここではアレ」「あそこではコレ」と、同じ状態で同じように俳句を詠む。西行と同じ追体験をしたいという強い願望がこの芭蕉の『奥の細道』なんですね。

 そこで、西行が「きりぎりす」を

    (西行)きりぎりす夜寒に秋のなるままに
        弱るか声の遠ざかりいき


 と、歌えば、

    (芭蕉)むざんやな兜の下のきりぎりす

 と詠む。

 西行が立ち止まって田植えを見てから去ったという「遊行柳」の歌を詠んだ場所では、同じように芭蕉も柳の俳句を詠みます。

    (西行)道野辺に清水ながるる柳かげ
        しばしとてこそ立ちとまりつれ

    (芭蕉)田一枚植えて立ち去る柳かな



 おや、おや、おや、と思うほど、同じ場所に佇み、同じように詠んでいるんですねえ。これはほんの一例です。微笑ましいというか、ファン心理の熱烈さに戸惑うというか、まあ、そうして数々の俳句を作りながら、芭蕉もいよいよこの旅の目的地奥州平泉に到着します。ところがここでもっと驚く展開が待っているのですねえ。
 西行は平泉で遠縁である秀衡に歓待され、平泉でも西行の歌詠みとしての評判は聞こえていたのでしょうね、秀衡に請われて数多くの歌を詠んでいます。そればかりか秀衡は西行にこの地に留まるよう勧めたということです。
 芭蕉がこの地を訪れた時には、すでに三代の栄華、藤原氏も滅び、秀衡の屋敷跡も田野になっていました。曾良の日記によれば別当が留守で中を開けて貰えなかったということが書いてありますが、縁もゆかりも無い芭蕉には、中尊寺の光堂内部を見学さえさせて貰えなかったのでしょう。しかし、西行を辿る重要な旅の、最もクライマックスである平泉で、中に入れなかったなどと書けましょうか。芭蕉はまるで見てきたかのように金堂の中の様子を『三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。』と書き記すのです。

    (芭蕉)夏草やつはものどもが夢の跡
        五月雨のふりのこしてや光堂
 
  写真は事実を写していても、フレームの外にあるハミ出したり余分なものはきれいに切り取られています。俳句はよく写生とか言われ写真と比較されたりします。言葉での写生が俳句であるなら、瞬間の写生が写真とも言えるのです。『奥の細道』も、体裁の悪いフレームの外は切り落とし、きれいに整えられた芭蕉の作品だったと言えるでしょうね。

 
 さて、それから何年経ち、どれほどの歌人が同じようにこの道を辿ったことでしょう。西行が奥州を巡った月日は流れ、芭蕉が巡った月日も流れ、何百年の月日が巡り、現代人にも『奥の細道』の人気は絶大です。同じ場所で同じように佇み、西行を偲び、芭蕉を偲ぶ人はあとを絶ちません。

        月日は百代の過客にして
        行き交う年もまた旅人なり



 当時はすべての行程に宿屋が完備していたわけではありませんから、芭蕉も一般の人の家に泊めて貰ったりするのですが、そこでは宿を断られたり、関守にあやしまれたり、野宿のようなことをしなければいけない場合もあったようです。暑さ寒さもあり、芭蕉も雨に祟られたり、馬と一緒に寝なければならないような俳句も詠んでいます。
 “野たれ死ぬ”ことも覚悟の上での旅でもありました。けれど「漂泊の思ひやまず」とあります。人生の終末を迎え、旅への想いは募るばかりです。いつか西行と同じ場所に立ちたいと考えたのでしょうね。本で読むだけではダメで、そこが重要なんですね。自分で体験したい。西行と同じ空間、同じ場所で、同じ想いを共有したいと切に願ったのが『奥の細道』だったのでしょう。



  

 
 

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2007年11月 9日 (金)

一休『狂雲集』

  世を儚んで出家した西行や、せめて人生の終末好きに生きたいと遁世の旅に出た芭蕉などとは違い、「出家」などしたいとも言っていないのに、無理矢理させられる出家というものも数多くありました。政争に巻き込まれるのを懸念して母が息子を鞍馬寺に預けた義経の例のように、マンガでお馴染みの一休さんも否応も無く子供の頃安国寺に預けられ、出家させられたひとりでした。 
 京都府京田辺市に一休寺(酬恩庵)がありますが、ここは一般の寺と違い、一休さんのお墓とされている所には入れません。寺そのものと、資料館のような所は開放されていますが、菊の御門の向こうは堅く閉ざされているからです。
 一休さんは南北朝小松天皇の御落胤と言われています。天皇家の血をひく者であるから、今でも丁重に宮内省が管理しているのです。 
 
  普通の両親揃った家庭に生まれたって青年は悩むのです。妻子があったって西行は世を儚み、世間と相容れず出家しました。老年になった芭蕉も日常生活を捨て旅に出ました。天皇の子でありながら母とも離れ幼い頃から寺に預けられた子供が、人生に悩まないはずはありません。世の無常を人一倍感じたことでしょう。一休さんは二十一才の時自殺しようとして母の使いに止められたというエピソードがあります。その後も自殺を考えたことがあったようで、風狂とか、言動の烈しさにひじょうに感情の激しい人のように思われていますが、実はかなしみや、やるせない思いや、むなしさをいつも心に抱えていた人とも言えるのだと思います。
   
   有漏路より無漏路へ帰る一休み
   雨降らば降れ風吹かば吹け
    
  煩悩にまみれた現世から、やがては浄化された何もない境地へと帰る、今生きていることはそこでの一時、「一休(ひとやす)み」と考えたのでしょうか。この答えから「一休」と名がついたと言われています。 
 ところで、一休さんの肖像画を見たことがある人は驚くと思いますが、五分狩り白髪混じりの無精ひげ、実に“むさ苦しいじいさん”という風体です。室町時代の肖像とは思えないほど、今丁度声をかけたら振り向いたといった感じの絵です。何とも困ってしまうほど、どこにでも居そうな“貧相なおっさん”というのが第一印象。とても高貴な人らしからぬ風貌なのです。
 でもこれは、わざとそうした格好をしていたようですねえ。正面を向かず、まるでスナップ写真みたいな、そういう風貌の絵を描かせているのも、当時の禅宗の気風でもあったようです。源頼朝の有名な肖像画がありますが、優雅な日本画の伝統画法とは違い、妙にリアルに表現してあります。
 まあ、その風貌からも分かるように、一事が万事すべてにおいて反骨精神というか、彼の人生は何か“怒り”に燃えていたような生き方なのです。そもそも「狂雲」って号をつけるくらいです。あらゆるものをハチャメチャに壊したかったのかもしれません。女郎屋に長逗留する。女どころか男色にも積極的だったようで、とにかく“なまぐさ坊主”として色に狂う日常。
 好きこのんで寺に修行に入ったわけではありませんからね。若い頃はいろいろ悩んだこともあったのでしょうが、後年は開き直ったのかもしれません。好き放題、やりたい放題です。
  
 この女犯、飲酒、肉食、風狂、破戒僧としての一休さんの根底にあるものは一体何だったのでしょう。そこには大きな出会いがありました。臨済宗の流れ大徳寺を開いた大燈国師の弟子華叟宗曇に師事したこと。これが一休さんのその後の人生を決めたようです。
 当時、足利義満の庇護を受けた禅宗の流れを汲む南禅寺を頂点とした五つの寺の寺格が決められ、五山文化が築かれます。寺の格付けというのも何ですが、一休が師事した華叟宗曇の大徳寺は幕府に逆らって、そうした主流から外されていました。大徳寺というと利休を思い出すのですが、大徳寺そのものが反骨の気流を持った寺だったのですね。
 ところが、一休の兄弟子養叟は師の意志を継ぐどころか、師華叟=大徳寺の復活を願い、政府に働きかけるのですね。紫衣を貰う。大徳寺の開祖大燈国師は、あばら屋に住み、自ら乞食のようになって民衆に交わるような人であったため、天下国家に擦り寄っていくような兄弟子養叟のやり方に我慢できなかったのでしょう。
 
  実は一休さんは禅宗のお坊さんですが、浄土宗の開祖法然に傾倒していたようなのですね。おや、そうだったか、と思いますよね。一休は女郎屋通いもしていたそうですが、女犯という僧籍にあるまじき行為も、過激に妻帯を実践した法然の弟子親鸞の影響を考えれば納得できるのです。
 法然の思想を引き継いだ親鸞に関しては【民衆の仏教 親鸞と「悪人正機」】で書いておきましたので、http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2005/10/post_9cdf.html ぜひこちらも読んでください。
  親鸞は『たとい法然上人に騙されて地獄に堕ちても悔いはない。どうせ地獄に堕ちるよりほかない身だから』と語っています。法然の言う浄土思想を信じ、破戒し、肉食、妻帯した親鸞。法然は差別されたり、文盲でお経も読めないような貧困の民衆を救わないような宗教は宗教では無いと考えていました。修行したものだけが極楽浄土へ行けるのではなく、仏はすべての人を救済してくれるはずだと、考えたのですね。
 仏教で禁じられていた戒律をことごとく破戒していった親鸞の凄味は、非僧非俗というかたちで師の法然の思想を体現してゆきました。生きて地獄のような過酷な生活をしている民衆を救わないような仏であるなら、地獄へ堕ちても構わない、むしろ地獄へ堕ちることも本望だと考えたのでしょう。一休も『狂雲集』の中に「婬坊に題す」として、女犯して火あぶりになろうが、八つ裂きにされようが構わないと言っていますが、法然・親鸞の思想を引き継いで、それで地獄に堕ちるなら落とせと、考えていたのではないでしょうか。
 『狂雲集』では、露骨な性描写ゆえ、女犯、好色、老いて一層性に溺れる一休の姿のみが強調されますが、ただの放蕩坊主ではなく、法然の思想をひく確信犯だったとも言えます。
    
    九年まで座禅するこそ地獄なれ
    虚空の土となれるその身を
  
  これは達磨大師が石の上に座禅したことを批判したようにもとれます。九年も座禅するなんて地獄じゃないか、一体誰が達磨大師と同じようにその地獄のような修行をできるだろうか。人に出来ないようなこと、厳しい修行でしか救済できないとしたら、一般の人はすべて仏に見捨てられることになる。これは法然が主張したことですよね。
 以前このブログ【仏教 法然以前と法然以後】で書きましたが、“一切衆生をして平等に往生せんがために”ということに尽きると思うのです。こちらにも再掲しておきますね。
 法然は、修行をして悟りを開く『聖道門』と、浄土往生を目指す『浄土門』に分け、更に称名念仏を唱えることを正行(しょうぎょう)とし、これによってすべての人が浄土に導かれると説いたのです。
 自力で厳しい修行をし、悟りを開くことは凡夫に難しい。阿弥陀仏の本願、他力によって救済されるという思想。勿論これは法然が新しく言い出したことではなく、『無量寿経』四十八願の中の第十八誓願に書かれていると言われているもので、叡山にてどれだけ仏典を調べても民を救済する言葉を見つけられなかった法然が、最後に辿り着いた誓願(仏の言葉)であったと思われます。
 貧しくもただひたすら生活のために生きている善男善女が、仏を信じながら、しかし極楽往生できないとするならそれは一体何故なのかを、法然は考え続けた人なのでしょう。
  なにゆえ、そういった良心の人々が往生できないのか? 生きて差別され、死後も差別され、仏に救済されないということがどうしてあり得るのか、それは、とうてい納得できないことだったのでしょう。
 法然の教えは、仏門に入って修行するものだけが救われるのではなく、布施の多寡でもなく、身分の上下、職業の貴賤、学問のあるなしでもなく、お経が読めない無学な文盲の人であろうと、罪を犯した悪人や、その職業が穢れとされ仏に救われないとされていた穢多・非人であろうと、『南無阿弥陀仏』と唱えさえすれば往生できるというものでした。弥陀の他力本願で西方浄土に導かれるのだという教えを説いたのです。
 高野山が女人禁制であったように、当時の仏教界は女性も穢れた者として差別していたのですが、法然はそれも排し、女性も救済されると説きました。
  “難きを捨て易きを取りて”ということを法然は言っています。厳しい修行、難しい経を読むことではなく、一番簡単な『南無阿弥陀仏』という念仏を唱えるだけでいい。回数でもない。何万遍唱えたからといって回数の多い方が往生するというのではなく、“信じて申せば一念でも救われる”と言っているのです。
 これまでは、どんなことがあっても極楽往生できないと思っていた人々、お経も読めず、神社へ寄進する布施もなく、また死体を扱うことで不浄とされ、獣や肉、皮を扱うことで穢れた者とされ、身体に障害があるがゆえに乞食となり物乞いし、あるいは遊芸に従事し河原者と差別されていた人々にも仏の道が開けたのです。
  厭離穢土、生きて地獄のような日々を送っていた人々が、この法然の教えにどれほど救われたことでしょう。
 とはいえ、このような法然の思想は反駁弾圧も極め、特に「悪人正機」という言葉は多くの誤解を受けたようです。これは『善人なおもちて往生をとぐ、いわんや悪人をや、しかるを、世はひとつねにいはく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をやと。』という親鸞の言葉でも有名ですが、悪人こそ救われなければいけないはずだというこの背景には、「穢多」「非人」「女」が三大穢れとして往生できないという強い差別意識と無縁ではありませんでした。
 親鸞の行った「肉食(にくじき)」と「妻帯」も、仏教では殺傷を禁じ、獣などを狩猟して食べていた山の民や、獣の皮を剥いで職業としていた人々、清掃に従事していた人々などを「穢多」と呼んで差別していたこと、罪を犯した人などへの差別への徹底反発と言ってよいでしょう。親鸞は身を以て仏教の戒律を唾棄、法然の浄土思想を具現化しようとしたのです。(このことは、【民衆の仏教 親鸞と「悪人正機」】に書いてありますので、読んでください。)
   『たとい法然上人に騙されて地獄に堕ちても悔いはない。どうせ地獄に堕ちるよりほかない身だから』という親鸞の言葉と、一休が飲酒し、女犯し破戒僧としての自分を『火あぶりになろうが、八つ裂きにされようが構わない』と言う言葉は、法然の言う浄土思想を信じ、もしそこに神も仏も無いのなら、地獄に堕ちることも厭わないという強い意志の現れだったのでしょう。
 
  兄弟子養叟が師匠華叟の謚号を賜り、紫衣を貰い受けた時、一休さんの養叟への敵愾心も最高潮に達したのでしょう。印可状も焼き捨てたと言われています。しかし兄弟子養叟にしてみれば師匠華叟の名誉復活のために尽力したのに、そこまで一休に反発されてもと考えたかもしれません。とにかく一休の怒りたるや、師はそんなもの欲しがってもいなかった、死者を辱めるものだ、師の顔に小便をひっかけたも同じだと、激しく養叟を罵ります。 『臨済の宗門、破滅の始まり』とも言っています。乞食と同じ格好をして食べるものも食べないで、野宿した大燈国師と同じく、師匠華叟も清貧を甘んじていた。一切の権威など欲しがっていなかった。養叟が欲しがった名誉や格付けなど許し難い堕落、一休はそう考えていたのでしょう。
  
  一休さんの、あの“乞食”のような肖像画の意味も、破戒僧としての過激、風狂も、これでなら納得いきますよね。

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