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2008年2月 2日 (土)

新井白石『古史通』と『或問』『読史余論』

 新井白石は江戸中期、幕府に仕えた儒学者である。『古史通』とは、古事記などの日本の古代史について考察されているものなのですが、驚くべきことに、当時の道徳観がそうであったからなのか、新井白石の個人的な見解なのかが定かではないのですが、どうも極めて独断的な歴史観が述べられているのです。
 『古事記』には、国産みをした神として、伊邪那岐と“妹”伊邪那美の名があります。古代の日本の婚姻制度には近親婚も多く、妻や夫を「妹(イモ)」「兄(セ)と呼ぶ習わしも、その名残かと思われます。
  ところが、新井白石は、そういった「兄」と「妹」が結ばれるという不道徳な婚姻の形態を認めたくないらしく、「道徳的でないことが書かれているのは誤りで、記述が正しくない。」と言っているのです。
  おやおや、いきなりそうきますか、と、たとえ新井白石の道徳観と古代の婚姻形態がズレていたとしても、書かれてあることが「間違っている」とは、あまりに学者らしからぬ発言ではありませんか。実の兄妹の結婚はさすが古代でもありませんでしたが、父母どちらかが違えば、血族婚もあったのかもしれません。  
 むしろ近親婚は普通に見られることでした。聖徳太子の父用明天皇も、母である穴穂部間人皇女も、蘇我稲目の娘の子供であり、つまり用明天皇と穴穂部間人皇女は従兄弟同士ということになります。

   当時は特に天皇家のような高貴な身分の人々は、その血を保つことで身分の高さを保持するため、叔父叔母などの近親婚もあたりまえに行われていました。聖徳太子の家系は蘇我氏の威光の強さが反映しているものと考えればいいでしょう。
 こうした古代の婚姻制度に対し、「小姪叔異母父子の婚姻に秩序のないありさまを述べたりしている。道徳上の教えにおいて、何を教えとし、鑑戒において何を戒めとするのか、明らかにされてはいないのである。」とあります。
 『古事記』では邇邇藝能命(ニニギノミコト)が麗しき美人であった木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)を嫁に欲しいと申し出ると、父である大山津見神は姉の岩長毘売も一緒にやるというのです。もちろん現代人の感覚から言えば、姉妹が同じ男に嫁ぐことは、驚くべきことですが、この時代にはそうしたことも普通に行われていたのでしょう。格別変わったこととして書かれているわけではないのです。ただこの岩長毘売がたいへん醜かったので、「甚凶醜(イトミニクキ)によりて、見畏みて返し送り」とあるのです。妹を嫁に欲しいといったところ、姉も一緒に来たが、姉が醜かったので要らないと送り返したのですね。 
 つまり蘇我稲目の娘二人が、聖徳太子の父である一人の男(用明天皇)に嫁いだことも、神話時代から続いていた習わしであって、当時は、同じひとりの男に姉妹が同時に嫁ぐということもまヽあったのでしょう。
 ですから古代に書かれたことが多少奇異に見えても、それは古い時代の因習を写す貴重な資料と考えなければならないはずですが、これを新井白石は「すべてこれらのたぐいを見れば、父子兄弟のあいだで道徳が正しく行われていたとは考えられないことばかりである。」と、言って切り捨てています。
 当時の江戸の学者の道徳感がこのようなものであったことは、かえって興味深く思えましたが、これだけではありません。さらにさらに、新井白石の過激な歴史観は続くのです。

 『古事記』には、伊邪那岐と伊邪那美のふたりの最初の子供が「水蛭子(ヒルコ)」であったために、水に流して葦船で流したことが書いてありますが、そうしたことも、「書かれた内容が正しくないことが自然に明らかになるであろう。」と、述べています。 
 これは以前このブログ【『古事記』王権と男女の交合(まぐあい)】、
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/09/post_096e.html にも書きましたが、『古事記』では最初伊邪那美が先に声を発したがために、伊邪那岐から『女人先に言へるは良からず』と、水蛭子(ヒルコ)が生まれたことになっています。そこで、その子は葦の舟に入れて流してしまうのですが、『古事記』原文では以下のように記されています。

 伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。
 爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在。
 故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。
 爲生成國土奈何 伊邪那美命答曰然善。
 爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行迴逢是天之御柱而。
 爲美斗能麻具波比 如此云期。
 乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。約竟以迴時。
 伊邪那美命先言阿那迩夜志愛袁登古袁
 後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。
 女人先言不良。雖然久美度迩 興而生子、水蛭子。
 此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。


 最初の子供は間違った方法で交合い、水蛭子(ヒルコ)が産まれてしまったため、そこでもう一度ふたりは子づくりをやり直して、伊邪那岐は『乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。(あなたは右から廻りなさい。私は左から廻り、お互い逢いましょう。)』と、今度は伊邪那岐が先に言葉を発し、ようやく“正しい交合い”ができ、日本列島の島々=淡路島など、国産みをしていきます。

  江戸時代も貧しい農村で堕胎は普通に行われていたとも言われています。『古事記』にある水蛭子(ヒルコ)というのが、早産であったのか、未熟児であったのか、蛭(ヒル)のような手足の無い奇形児であったのかは分からないのですが、海か川に流してしまうというのは、新井白石の道徳観からすれば、考えられないことだったのでしょうか。
 けれど、江戸時代だって、産まれてすぐの赤ちゃんを、何らかの理由で親が育てられず、「赤ちゃんポスト」のように、捨てる場合も多くあったのではないかとも思うのです。
 伊邪那岐・伊邪那美夫婦のみならず、水蛭子(ヒルコ)が葦船に乗せ流されるというお話が、実は神話だけのことではなく、普通にあった話しだからこそ、「桃太郎」が川から流れてきておじいさん、おばあさんに拾われたり、「かぐや姫」が竹藪で翁に拾われたりしたのではないでしょうか。むしろ「捨て子」は普通にあることだったのではないかと思うのです。たまたま拾った老夫婦は、それが他で捨てられた子とは思わず、神様からの授かりものと考え大事に育てたのではないでしょうか。

  『古史通或問』は問答形式になっていて、QandA、邪馬台国や卑弥呼などにもふれ、「問い」に対しての「答え」という形で進んでいきますが、新井白石は建速須佐之男命(素戔嗚尊)に関して言えば、韓(カラ)に天降ったと書いています。建速須佐之男命の伝承には高天原を追放された後、韓国に渡り、それから出雲に来たという話しや、建速須佐之男命が韓神である熊野の牛頭天皇と同一視されるなどありますが、これはあくまでも伝承と思っていました。ところが、どうやらこの時代はその伝承がそのまま信じられていたらしいことが、白石の書いたものから分かりました。
 また、古代日本民族が騎馬民族に征服されたという説や、日本人のルーツは韓国にあるという説は今でもありますが、「朝鮮の民族・風習と我が国の関係」と題した中で、白石はそうした考えに対し否定的な見解を述べています。理由は、韓国の歴史が日本の天皇の歴史より新しく、よって、日本民族の祖が韓国にあるというのは間違っているということらしいのですが、「あなたがもし馬韓とのつながりについて疑いをいだいているならば、あなたの眼には、ことごとく馬韓とのつながりがうかびあがってくるだろう。」と、ここで初めて新井白石は学者らしいことを述べています。
 邪馬台国論争もその一つですが、確証が無くても断定的に語っている本が世間には多くあります。研究者が陥りがちな盲信の戒めとでも言いましょうか、どんな学者にも言えることですが、何かを関連づけようと最初から意図していれば、どんなことも関係があるように考えてしまうことは、よくありがちなことです。けれどそれこそが真の研究にとっては大きな落とし穴であり、澄んだ眼を曇らせる一番の危険因子とも言えます。
 はじめて、学究に対するまともな言葉にであって、ほっとするのですが、それもすぐ翻ります。古代の様々な言葉の表記に対する考察では、「卑弥呼」という呼称も「日御子」であると言い、このあたりの推察は小気味よく読めるのですが、どうも新井白石の歴史観は、古史に書いてあることも、彼の価値観に無いことは真実ではなく、誤ったことが書いてあると頑として言い張るのです。
 これは自分が述べている、真理を探究する学者としての心がまえとは矛盾するように思えるのですが、どうなんでしょうね? 
 
  『読史余論』には、「壬申の乱」に対する記述があって、天智天皇の皇子である大友皇子を討ち政権を奪った天武朝が7代で断絶したこと、天智系の光仁天皇以降、現在まで天皇家が天智系であるのは、「天が道徳的に正しい側に味方したことは明白といえよう。」と書いてありました。なんと、天武朝は逆賊扱いなのです。
 これも江戸時代には一般に流通していた史観であったのか、新井白石個人の考えであったのか、よく分からないのですが、いずれにせよ、「あなたがもし馬韓とのつながりについて疑いをいだいているならば、あなたの眼には、ことごとく馬韓とのつながりがうかびあがってくるだろう。」と、言った人の言葉とは思えない、史実を史実のまま見るのではなく、かなり感情的な私見を交え歴史を見ているではないかと思える言説が続きます。
 これが当時の幕府や儒学者の一般的な考えだったのか? 宗教観に関しても、驚くべき見解でして、なんと、仏教に関して「憎むべき仏教勢力」ということを書いているのです。彼が儒学者であったとしても仏教勢力が“憎むべきもの”であったとは、穏やかならぬものがあります。
 彼はこう書いているのです。「比叡山の僧はいうまでもなく、法華宗(日蓮宗)、一向宗(浄土真宗)の僧徒、高野山・根来寺の僧徒らも、」と、仏教勢力が大きな力を持っていることを苦々しく書いていて、信長が比叡山と根来寺を焼き滅ぼしたことを「大きな功績であった。」とまで書いています。
 江戸時代にも大きな一揆があり、そうした反乱には法華経や、一向宗などの集団が関わっていましたから、分からないでもないですが、白石が民衆側にいる人ではなく幕府側の人間であったからこそ、お上に逆らう集団は許せない、という意味の発言になったのでしょうか。

 彼の儒教精神は、自分の兄弟も無慈悲に殺した冷徹な頼朝にも批判の眼が向けられ、「ついには北条氏のために後継者を滅ぼされてしまった。天のむくいは的確であるとはいうものの、そもそも彼自身に根を発していたことであった。」と、実朝が公暁に暗殺された顛末も天の報い、頼朝が行ったことの因果応報と言っているのです。
 たしかに忠孝忠義、信、仁、愛、誠、礼、義などをモットーとする儒教精神からすれば、我が兄弟、親類縁者を殺すなどもってのほかかもしれません。君子に対する逆賊や謀略も同じで、「爾より出で爾に帰る」と孟子の言葉を曳き、善悪福禍みな自ら招くという考えを示していますが、どんな歴史的事件も、すべて、結局「報いが来て滅んだのは当然」という結論になっていて、鎌倉三代、頼朝はじめ正子、北条氏が滅んだのも、室町三代幕府が滅んだのも、信長が最期光秀の謀反で殺されたのも、豊臣家が滅んだのも、みな「あさましき世の習い」と、天の報いで片づけられてしまうのもどうかなと思うのです。
 新井白石は江戸の大学者とも言われている人です。なので、彼の歴史観がどのようなものであるのか、かなり期待を持って読んだのですが、古代史を読み解き、日本を読史した結論が、すべて「爾より出で爾に帰る」であり、政権が交代し、時代が変わり、歴史が変遷してきたことを、「天の報い」に結論づけるとは正直驚きでした。とても歴史家の見る目ではありません。
 結局、滅んできた者たちの最期がよろしくないのは自業自得と言い、我が神祖(徳川家康のこと)に家臣は忠孝忠義であったから、江戸幕府が永きに渡って滅ぶこともなく、世の中は天下太平であると、徳川家の神祖家康を褒め称えています。
 おやおや、やがて徳川も滅び、天下が変わるとは考えていなかったようですが、さて、では徳川幕府が滅んだのは因果応報だったのでしょうか。?
  
  こうした江戸の学者に蔓延していた儒学的歴史解釈に対し、「漢意(からごころ)」を排除し「古えのまことの意(こころ)」をとらえようとしなければならないと、「大和魂(やまとごころ)」によって読み解いていくべきだと主張したのが本居宣長でした。
 そして、「古(いにし)えのまことの意(こころ)」を知るには、何よりもまず「古言」を知らなければならない。それが宣長が三十五年という歳月をついやして『古事記』を読み解いていく発端でもあったのです。
 

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2008年2月 6日 (水)

新井白石「漢意(カラゴコロ)」vs本居宣長「やまと心」

  今まで『古事記』を何度読んだかしれません。今回は新井白石の儒学的史観「漢意(カラゴコロ)」に対する本居宣長の「古(いにし)へのまことの意(こころ)」という「やまと心」の視点で読んでみました。
 
  『古事記』の内容をかいつまんで話せば、伊邪那岐(イザナギ)と妻の伊邪那美(イザナミ)神の二人が、古代日本(大八州國オオヤシマクニ=淡路島、本州(大倭豊秋津島)、九州、四国、対馬、壱岐島、隠伎島、佐渡ガ島)を国産みしていきます。ここで注目するのは、本州・九州・四国と比べてあまりに小さな島である、対馬、壱岐島、隠伎島、佐渡ガ島などが大八州の一つの国と位置づけられていることです。淡路島は最初に創り上げた島ですから入っているのは当然として、考えられるのは、これらの島々が日本海を挟んで大陸との交通の重要な拠点であったことです。当時の古代国家がすでに、大陸に向いていたことの証とも言えるでしょう。それに対し、北海道はまだ未探検の地であり、南方の琉球(沖縄)も、屋久島や奄美諸島も大八州國の中に入っていません。少なくとも『古事記』以前の交流は無かったことが分かります。
 さて、伊邪那岐と妻の伊邪那美神の二神は、更に数々の神々を生むのですが、火の神を産んだ時、伊邪那美は死んでしまうのです。亡き妻を恋て、伊邪那岐命は黄泉の国まで追っかけていきます。ところが伊邪那美は死者として蛆(ウジ)がわき、恐ろしい姿になっています。伊邪那岐命は慌てて逃げ帰り、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原まで来て、その穢れを禊ぎするのです。
 その時、左目を洗いすすぎ産まれたのが天照大神(ママテラスオオミカミ)、右の目を洗いすすぎ月讀命(ツクヨミ)が産まれ、鼻を洗うと建速須佐之男命(素戔嗚尊スサノオ)が産まれました。つまり、これらの三神は、今までは夫婦男女二神が交合してできた神々とは違い、男神である伊邪那岐命がひとりで産んだことになっています。
 この建速須佐之男命は母伊邪那美の死を悲しんで、山を枯らし、海を干すほど泣きわめいたとあります。そのため、「萬(ヨロズ)の禍(ワザワイ)が発(オ)き」、父伊邪那岐は怒って「この國に住むべからず」と、追放してしまうのです。
 それなら姉の天照大神に挨拶してからと、建速須佐之男命は姉の住む所に向かうのですが、天照大神は建速須佐之男命が攻めてくると思い、武装(男装)して「何しに来た」と問います。すると建速須佐之男命は、「僕(ア)は邪(キタナキ)心無し」、「妣(ハハ)の國に行かむと思い吠(ナ)いた」と答えるのです。そこでふたりは、天の安の河で誓(ウケヒ)をし、子供を産みます。
  伊邪那岐・伊邪那美夫婦ばかりでなく、兄と妹、姉と弟の、こうした交合(マグアヒ)で子を産む場面が何度も出てきますから、これが新井白石の「道徳的でないことが書かれているのは誤りで、記述が正しくない。」と言う発言になっているのです。それは、新井白石『古史通』と『或問』『読史余論』http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2008/02/post_9510.html に書きましたので、読んでおいてください。
  さて、それで二人はうまくいくかに見えて、たくさんの神々を産みますが、そうなると建速須佐之男命は「我勝ちぬ」と自分の勝利宣言をします。天照大神の田を荒し、宮殿に糞を撒き、機織りを壊し、馬の皮を逆剥ぎするなど、散々に大暴れをするので、機織りたちが驚愕のあまり死んだりしました。天照大神も畏れをなし、岩戸に隠れてしまうのですが、すると高天原は一転暗くなり、八百万の神々がなんとか大御神を岩戸から出そうと集まってきます。そこで天宇受売命(アメノウズメ)が足を踏みならし、胸乳を出し、裳紐を陰部(ホト)に垂れと、神懸かりダンスを踊るわけなのですが、あまりの騒々しさに天照大神は「何事が起こっているのか?」と覗いたところを、鏡で照らし、天手力男神が岩戸をこじ開けます。
  建速須佐之男命はこの後、髭を切られ、爪を剥がされ、追放されます。そこで出雲の国にたどりつくことになるのですが、そこから八俣の大蛇伝説や大国主命の出雲の国譲り神話になり、いよいよ天照大神の直系神である邇邇藝命(ニニギノミコト)[正式名:天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命]が地上に天降(クダ)ることになります。

 ここから本題である、『古事記』の上での大バトル、新井白石の「漢意(カラゴコロ)」と本居宣長の「やまと心」の話しになります。
 何故か、新井白石はこの邇邇藝命(ニニギノミコト)が天降った「高天原(タカマガハラ)」は「常陸の国(今の茨城)」と言い切っているのです。???  
 古代日本を考える時、当時の大和王権を中心として考えるならば、まだ関東平野の北は、未開の「蝦夷」と呼ばれた蛮夷の地であって、とても茨城に「高天原」があったとは考えられないのです。にも関わらず、何故新井白石は関東の北、茨城を「高天原」と設定したのでしょう?
  『古事記』には、倭建命が父から命じられ「東の方十二道の荒ぶる神、また伏(マツロ)はぬ人等(ヒトドモ)を言向け和平(ヤハ)せ。」と、征伐を命じられたことが書いてあります。東国は大和王権に「伏(まつろ)はぬ人等」の地であったわけで、尾張(今の愛知県)より東を順番に征服していきます。相模(現在の神奈川県)で「蝦夷どもを言向け」とありますから、東国が今で言う関東よりもずっと西、静岡あたりからもう東国であったことが分かります。
 あまりに長く遠征の旅にあったので、足柄山を越えたあたりで「吾妻(アがツマ)はや」と、妻を恋い思ったのですね。そこでこの地を「吾妻(アヅマ)」と呼ぶようになったと『古事記』には書かれています。この東国征伐で倭建命は歌を詠います。

  新治(茨城のこと)、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる

 ここで茨城の地名が出てきますが、これが東国遠征の最北なのです。つまり新治(茨城)、筑波以北は倭建命でも向かわなかった地であったということです。彼は、この後、更に科野(長野県)を廻り、長い長い旅を終え妻の待つ尾張に帰ってくるのですが、これが王権にまつろわぬ蝦夷征伐を目的とした、東国遠征の旅でした。
 「高天原」が茨城であるという意見は聞いたこともありません。では何故新井白石は、「高天原」を常陸の国と断定したのでしょう? 
  『古事記』の記述をそのまま解釈するならば、邇邇藝命(ニニギノミコト)は、「筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき。」と書いてあります。筑紫ということは九州と考えるのが普通ではないでしょうか。その後神武天皇の代になって、王権は九州から東進し、八咫烏の導きで熊野に到着、古代国家としての大和王権が、現在の飛鳥の橿原あたりを基盤として築かれていったと考えるのが自然だと思うのですが、新井白石の考えはまったく違ったようなのです。
 彼はこのように書いています。
 「常國というのは、すなわち常世の國のことである。古い時代には新治國、筑波國、茨城国國、仲國、久自國、高國などの地は、すべて常世の國といった。また日高見國とも言った。現在の常陸の国がそれである。この国は、日の神がお立ちになった土地であるから日立國といった。」
 新井白石の解釈によれば、「高天原」の「高」は、高國=常陸國の多珂郡の地であり、「天」はアメが転じてアマになり、「海(アマ)」のことであり、常陸の国の海辺のほとりの地を言うということらしいのです。いやはや、なんとも、茨城に「日立」という地名があるだけで、古代日本の常陸國に「高天原」があったと断定して良いものでしょうか。

  実は、新井白石の書いたものを読むほどに困惑するのです。みなさんもwebで「新井白石」を検索されると分かると思うのですが、新井白石を紹介したものには賛辞ばかりが多いのです。私の持っている中央公論の『新井白石』でも桑原武雄が解説していますが、「日本がもちえたもっとも偉大な百科全書的文化人」と大絶賛で、「高天原」が常陸にあったという説も、「万物は東からはじまる」と、あっさり、そのまま受け入れているのです。
 福沢諭吉は数少ない新井白石批判をした人のようなのですが、桑原武雄は「国際的視野を持った人」だの、「歴史を総合的に把握した最初の歴史家」と褒めそやしています。これほどの賞賛ですから、かなりの期待を持って読み始めたのですが、「高天原」の一件にしても、新井白石の『古事記』の見方や、『或問』や『読史余論』に書かれた歴史観を知るにつれ、これは困ったことになった思うようになりました。私はまさか、偉大な学者であるはずの新井白石が、あのようなことを言っているとはつゆほども知らず、彼の書いた物を読めば、「なるほど!さすが!」と感心し、納得するものだと思っていたのです。
 ところが、読めば読むほど「これは、どうしたものか?」と、困惑するばかりになってきました。
 ちなみに常陸の国(茨城)は、彼が生まれ育った地であります。故郷は特別な地霊を持った神聖な所であって欲しかったのでしょうか。

 けれど、新井白石を読んだことで、副次的な“おまけ”がついてきました。新井白石を読んだからこそ、鮮明に見えてきたものがあったのです。それは本居宣長が「漢意(カラゴコロ)を排除し、「古(いにし)えのまことの意(こころ)」を知るには、何よりもまず「古言」を知らなければならない」と言った言葉の、意味でした。
 宣長の『宇比山踏(ういやまぶみ)』は、新井白石の『古史通』に、疑問を問い返したかたちになっていたのだ、と気づいのです。本居宣長が執拗に儒学者への批判を繰り返していたのは、実は、新井白石批判であったということです。新井白石の『古史通』に反意を述べるために、本居宣長は三十五年という歳月をかけ『古事記』の研究に没頭したのでした。
 「そうか、そうだったのか、」
 本居宣長は、新井白石が書いた『古史通』の古事記解釈に、とうてい納得できなかったのでしょう。今は本居宣長の、その矜持がよく分かります。

  実は、以前【本居宣長『宇比山踏(ういやまぶみ)』http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/post_0af1.html 】をこのブログで書いた時、宣長が「よその国の学問より、まず自国の学問を。儒意をまぜると、解釈を誤る。」と言っているのを、深い意味で捉えてはいませんでした。『宇比山踏』 には「儒のこころをきれいさっぱり洗い去って、“やまとたましい”を堅固にすることが肝要。」と書いてあります。
 本居宣長が言う、「古(いにし)えのまことの意(こころ)を知るには、何よりもまず「古言」を知らなければならないという言葉は、新井白石その人の言葉でもありました。ですが、その解釈が「高天原」が「茨城」であるというような、あまり無茶な独断的な見解で、宣長には許し難かったのでしょう。
 
  江戸時代の学問というと、それは「漢学」を言いました。その時代に、契沖、賀茂真淵、本居宣長と続く「国学」が誕生した経緯には、幕府御用学者であった新井白石始めとする儒学者たちが闊歩した学問の形態に、疑問をいだいたことにもあったのでしょう。
 とはいえ、自分の思いこみだけで語るならば、それは新井白石と同じになってしまいます。何よりもまず「古言」を知るには『万葉集』を読み解き、その「やまとことば」で『古事記』を読み解いていかなければならない。そう宣長は決心したのです。
 宣長に言わせれば、「言(ことば)」と「事(わざ)」と「心(こころ)」、その真(まこと)を知ることが、日本という「世のありさまを正しく知る」ことだったのです。

  『古事記』には神々の表記として、「邇邇藝命」や「天照大御神」のように「命」と表記されるものと、「神」と表記されているものとがあります。『古事記』では、「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」と表記されていた二神が、「天つ神」の命(ミコト)を受け、国産みをした後、「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」と、「神」から「命」と表記が変わります。
 新井白石は『古事記』に書かれた「神」も「命」も、「上古のならわしでは、人を尊んでみなこれを『美許登(ミコト)』とほめたたえた」と書きました。
 これに対し、宣長は「命(ミコト)は御言(ミコト)なり」と、考察します。しかし、「高天原を知らせ」という父伊邪那岐の命を受けた天照大神は「大神」と「神」の上に更に「大」がつき、そのままなのです。
  同じ伊邪那岐から産まれた三人の子供でありながら、「月読命」と「建速須佐之男命」の二人の呼称は「命」ですが、天照大神のみが特別扱いです。これは、高天原を支配する「神」はアマテラス大御神だけであり、それ以外は“生身の人間”として扱われているので「命(ミコト)」になったのではないかと、私などは考えるのですが、本居宣長は迂闊なことは言わず、「美許登(ミコト)てふ言の意は、いまだ思い得ず」と書いています。
 分からないことは語らない、という潔さを感じますが、新井白石の解釈への疑問は疑問のまま残しておいたと言うべきかもしれません。これは後の世になって津田左右吉や折口信夫なども同じように「命」についての考察をしています。

 白石が「高天原」を常陸の国と勝手に決めたことに対し、宣長は「天」と「地=この世」と「あの世=根の国(黄泉の国)」と、構造的に三段階にした天地図を描いています。彼の世界観は天照大御神を頂点にした神国日本でした。彼の世界観の中に外国はなかったのです。
 新井白石は、そういった意味では国際人だったかもしれません。彼の世界には、中国はもとよりオランダや、日本の外にある諸外国も見えていました。それに比べると、宣長の考えは違います。あくまでも日本を中心にして、日本の事情だけを考えます。
 それは後に【本居宣長vs上田秋成】の論争 http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/vs_22f5.html にもなっていくのですが、上田秋成は、宣長にこう言うのです。
 世界は広く、そこでは天照大神ではない別の神が信じられている。「外国は天照大御神の生まれませる御国にあらず。」と。
 地球上には多くの国や民族があって、「太陽」や「月」が、我が国で生まれたなど、世界中のだれが信じるだろうか、というのが上田秋成の近代的な考えでしたが、さて、それに対し宣長はどう返事したのでしょうか?
 彼は答えて曰く、日神である天照大神がこの国で産まれたのだからこそ、我が国は「神国」であるのだ。このように宣長は主張するのです。これが、その後太平洋戦争時にまで続く、日本の強い「神道思想」の元となっていきます。
  「日本魂(ヤマトダマシヒ)と云うも、偏るときは、漢籍意(カラブミゴコロ)にひとし。」
 これが上田秋成の痛烈な宣長批判でした。新井白石の偏りを批判した本居宣長の言葉でもって、秋成は宣長を批判したのです。
 
 純粋に学問として『古事記』にあたり、神代を知って、古(いにし)へのまことの意(こころ)を知るという宣長の研修が間違っていたとは思いません。
 この後やがて日本には、大八州国(オオヤシマクニ)の外海に、黒船が到来し、「世界」が牙をむけて待ちかまえている時代がやって来ます。更に、アメノタシラシメス皇国日本が大揺れに揺れ、天照大御神の日継皇子(ヒツギノミコ)である現人神(アラヒトガミ)である天皇が、昭和になって「人間宣言」をするなど、誰もが予想もしない事態が起こるのです。けれど、宣長は、そうしたこととの埒外、まったく知らない時代に生きていたのですからね。

 
 

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2008年2月 7日 (木)

森田康之助『やまと心』践祚(せんそ)大嘗祭

         Photo  森田康之助『やまと心』(錦正社)という本があります。皇国史観に基づいた内容で、そこは省きますが、「践祚(せんそ)大嘗祭」と、大嘗祭の儀式の様子を詳しく書いたものがあり、たいへん興味深いことが書かれてありましたので、紹介します。

    この「践祚(せんそ)」の「践」とは、踏むという意味。「祚」は主人が堂に登る東側の階段をいい、これは天皇が即位したときに「高御座」(たかみくら)への階段を踏み、壇上に上がることを云うのでしょうね。ちなみに現在も高御座は京都御所の紫宸殿にあって、大正天皇以降、即位のときに用いられてきたということです。玉座には椅子が置かれていますが、この高御座は高さ1メートルの基壇の上に、更に3メートルの八面の屋形を組んであり、屋根の上には鳳凰、端にはたくさんの鏡が鈴なりに垂らしてあるそうです。
           
  新嘗祭という言葉は稲積をニュウ、ニフ、ニホ、と呼び、そこから「ニヒナエ」「ニハナエ」という言葉に漢字を当てはめたものと思われると、森田氏は書いていますが、日本の神事はほとんど稲作に関連しています。
 収穫の齋場としてト定田と北野に施設をつくり、卜部など朝廷の使いが遣わされ、大祓えが行われる。物部氏なども、行事に参加し、最初に抜いた稲が八神殿の横の高萱の御倉に奉納される。
 東山天皇の代まで加茂の河原で10月下旬、禊ぎが行われたが、宮中で行われることにと、書いてありましたが、大嘗祭前の加茂川頓宮では「東御禊幄(ひがしおんみそぎあく)」という行事がされていて、ここでは「死」と「再生」二脚の椅子を置き、ひとつは刀が置かれ、皇太子は西の門から入り東に面して座り、日神と霊替わりをしたとされています。これで皇太子ではなくなり、日の子(天皇)となるわけですね。
 京都鴨川神社の御阿礼祭は葵祭の3日前の中午の日の夜に行うそうですので、きっと古代は天皇自ら、鴨川でその儀式をしていたのでしょう。
  
  『王権の神話』井本英一(法政大学出版)には、持統天皇の即位式は元旦と翌日の2回行ったとあります。興味深いことに、一日目は日本古来の即位式。二日目は外国式であったと言います。
 この本の中にはもう一つ、高御座が八角壇であるということにも関連するのですが、「夢殿」も八角、東大寺、猿田彦神社の「八角柱」、他にも「八色(やくさ)の姓(かばね)」「八紘一宇!」と、「八」という数が日本では重要な意味を持つものであると書いてありました。
  太平洋戦争の真珠湾攻撃も「12月8日」でしたが、これは決して偶然この日が選ばれたわけではなく、実はこの12月8日というのは『臘日(ろうじつ)』といい、年の変わり目、新たな年を迎える日なのです。大嘗祭が12月なのも、そういった意味があってのことなのでしょう。

  さて、大嘗祭では、御讀物(みあがもの)としての人形(ひとがた)を以て、主上は聖躬を左右中となで、その後米を散じて清めると、あります。
 左右中という言葉で思い出すのは、今でもお相撲さんが懸賞金を貰うとき、手刀を切る様子を土俵の上でしていますので、よく見ることができますが、この左右中というのは、天地開闢の造化の三神、「神皇産霊神(カミムスビノカミ)」「高皇産霊神(タカミムスビノカミ)」「天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」の三神のことを言います。
 ですから、「聖躬を左右中なで」とあるのは、三神に対してのお祓いなのでしょう。自分の手ではなく「人形(ひとがた)を以て」とあるのにも注目するのですが、これは聖躬が三神に見立ててあるからでしょうか。
 
  一ヶ月の物忌みの記述は、皇極天皇(642)、天武(674)あたりから、日本書紀にあると書いてありました。藤原氏の祖中臣、忌部が神官でした。ここでは、『中臣寿詞(なかとみのよごと)』という吉祥の詞を奏で、神代の古事(フルコト)が宝詞となっています。忌部が鏡と剣を奉ります。
 注目するのは、忌部は「鏡」と「剣」を奉りますが、ここに三種の神器である「勾玉」がありません。森田氏によれば、直接天照大神から邇邇藝命(ニニギノミコト)の「みたま」を戴くので、「玉」は無いということらしいのです。

     北
     |
     |
西――――――――――東
     |\
     | \
     南   ◎←東南の神坐に天照大神


   「北」は天皇の玉座で、東南の神坐に天照大神が居るとされています。儀式では、中臣寿詞の奏があり、隼人が“吠声”を発するとあります。「隼人(ハヤト)」といえば、火照命(ホデリノミコト)を祖とする薩摩地方の隼人族をいい、大嘗祭で演じられる「隼人舞」とは、海水に溺れ苦しむ様子を演じたものです。
 では何故、海に溺れる様子を舞ったものを大嘗祭という大切な儀式で舞うのでしょうか? 古事記にはちゃんと、その理由が書いてあります。

  火照命(ホデリノミコト)は、この日本に天降った邇邇藝命(ニニギノミコト)と木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた子供で、「海幸彦と山幸彦」の神話で有名な兄・海幸彦のことです。
 海幸彦は漁をする素晴らしい釣針を持っており、弟の山幸彦(火遠命ホオリノミコト)は羨ましく思っていました。そこで兄に願い出て釣針を貸して貰います。ところがそれを海で無くしてしまい、兄の怒りにふれ、十拳劔(とつかのつるぎ)から五百の釣り針を作り、千の釣り針を作り償おうとしますが、兄は許してくれません。どうしても元の釣り針を返せと言い張るのです。
 そこで仕方なく、海の中へと探しにいきます。海の中には綿津見(わたつみ)の宮殿があり、そこには美しい豊玉比賣がいて、彼女は山幸彦を手厚くもてなし、ふたりは結婚します。彼女は赤鯛に針がささったままになっていることを見つけ、それで山幸彦は帰ることができるのですが、豊玉比賣は海神の娘であるので一緒に帰ることはできません。けれど、その時すでに子供ができており、その子が「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト)」であり、この日高日子波限建鵜葺草葺不合命が玉依毘売を娶って生まれたのが、「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコ)」、神武天皇なのです。
 これ以前「天皇」と表記されている人はいません。「神」か「命」で表記されています。ですから、山幸彦「火遠命(ホオリノミコト)」の子である「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト)」の子、「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコ)」から「天皇」と呼ばれる古代日本の歴史が始まるのです。
 
 さて、山幸彦は、海神より綿津見宮から帰るとき、潮が満ちる玉と、潮が干く玉を貰って帰ってきます。洪水も自由に起こすことができ、それで兄を懲らしめ、兄は弟に服従を誓います。
 自在に洪水を起こし、溺れさせることができたので、それが「隼人舞」の海で溺れる仕草になっているのです。また隼人が犬の吠え声を出すのは、隼人が服従して後、宮の警護にあったからと古事記には書いてあります。
 つまり、そうした古事記の中に書かれた事が、単なる神話のお話などではなく、実際の宮中行事の中に今尚残っているということなのですね。これは、天皇家が「古代日本」をそのまま儀式に受け継いできたということでもあり、神話の時代よりの「日継」の継承者であるということです。

 物忌みの最中、天皇は柏で作った十枚の葉盤(ひらで)にご飯や神饌を盛り、御神酒とともに、食べます。儀式の時刻は戌の刻(午後八時)から翌朝寅の一刻(午前三時半)すぎまで、深夜に行われます。
  ここで「真床覆衾(まとこおふふすま)」という言葉がでてきます。大嘗祭には上座として衾が用意され、内侍が八重畳に薦(こも)を巻いた枕を用意する、とあります。これは天照大神の命(御言)を持って天降った邇邇藝命(ニニギノミコト)の「御霊(ミタマ)」が身体へ入るまで籠もるためで、これをもって天皇は“生き通しである”「御生(ミアレ)ます」ということになります。


 最後に森田氏は、世間にある天照大神の岩戸隠れを日食に関連づける説を否定しています。むしろ冬至太陽の衰え、その活力復活の祭りが岩戸の祀り神事であって、鎮魂祭と新嘗祭は一つづきに行われた祭儀と言っています。確かにそのように言われれば、そうであるようにも思えます。
 いずれにせよ、忍穂耳命(オシホミミミコト)を始め、邇邇藝命、高皇産霊(タカミムスビ)にせよ、神々の名が成熟した稲穂や熟れた稲穂という意味でつけられていることと、現在でも日本各地の神社の一番大事な祭祀は稲の吉凶を占うことであり、豊饒万作を祈ることであることなどを考えるなら、冬至太陽の一番衰える時期に、その活力復活を祈る鎮魂祭と新嘗祭という考えは理にそったものと言えるのではないでしょうか。

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2008年2月 8日 (金)

『万葉集』考察 有間皇子の挽歌とその解釈をめぐって

  さて、昨日紹介した森田康之助『やまと心』の「践祚(せんそ)大嘗祭」http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2008/02/post_afbb.htmlに関する記述は、大変興味深いものでしたが、ここで注目するのは、一ヶ月の物忌みの儀式の際、「天皇は柏で作った十枚の葉盤(ひらで)にご飯や神饌を盛り、御神酒とともに、食べる。」とあったことです。 
 「十枚の葉盤(ひらで)」ということは、何かの植物の「葉」を食器代わりにしたということです。そこで思い出すのが、万葉集の巻 第二 142「挽歌」として有名な、有間皇子の歌です。

  家に在れば筒(ケ)に盛る飯(イヒ)を草枕
  旅にしあれば椎(シヒ)の葉に盛る


 古文の教科書にも載っているので、よく知られた歌の代表格ともいって良いでしょう。私の持っているのは、岩波書店「日本古典文学大系4」の「万葉集 一」で、高木市之助、五味智英、大野晋氏などが編纂、解釈の解説をされています。そこでの解釈は、古文の授業で聞いたのと同じ、『旅の途中であるから食器が無く、木の葉を代用してご飯を食べた』ということになっています。 
 「なるほど、旅の途中であるから、木の葉を食器代わり」と、そのまま素直に受け止めていました。 
 が、少し考えてみれば、家でも「筒(ケ)に盛る」と、竹の筒の簡素な食器であったわけですから、重くて持ち運べなかったというほどの物ではありません。まして皇子のような高貴な人が一人で旅していたわけでもありません。従者がたくさんいての旅です。「筒」ひとつ持ち運べなかったとはとうてい思えないのです。
 以前このブログにも書いた、【『江戸の旅文化』神崎宣武 岩波新書 
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/03/post_6443.html
 にも、庶民の旅の形態が様々に書いてあり、宿泊に際しても、食事付きの立派な旅籠から、寝るだけの木賃宿、野宿しながらの自炊する旅もありました。日帰りではないのですから、旅に出ると決めた時から、「食事」のことも考えるわけです。泊まるところが食事付きの宿屋ではないなら、当然米を持って、鍋やお椀、箸一膳を携帯するのです。これは「旅」に出る前から準備として当然のことでしょう。
 では、いくら時代が古いからといって、有間皇子の従者はそうしたものを用意しなかったのでしょうか。仮にも皇子です。従者は道端の椎の葉を取って皿代わりにしたというのでしょうか。
 
  この歌を詠んだ時、有間皇子の「旅」は、物見遊山の旅ではありませんでした。謀反を企てたという理由で、斉明天皇が湯治をしていた紀伊へ護送され、藤白坂で処刑になります。この歌はその時詠んだ辞世の歌ともされているのです。
 大化改新以後、皇極天皇の時代、後継者として弟の軽皇子と皇極天皇の息子である中大兄皇子(天智天皇)の名があがりました。皇極天皇の弟である軽皇子が孝徳天皇とななりますが、実権を持たなかった天皇とも云われています。653年には、中大兄皇子が孝徳天皇を無視し、皇極天皇はじめ、一族郎党ひき連れて難波宮から飛鳥へともどってしまうという事件が起きます。翌年難波宮で孝徳天皇は病になり、亡くなります。有間皇子はこのとき15歳でした。
 孝徳天皇が亡くなると、中大兄皇子の母皇極天皇が再び斉明天皇として即位しました。父孝徳天皇が無くなり、後ろ盾がなくなった有間皇子は、中大兄皇子との政権争いを避けるため、狂ったふりをして、治療のため紀伊の牟婁(むろ)の湯に籠もります。皇子が狂ったふりをするというのは、まるで『ハムレット』を見ているようです。ところが、政権も落ち着いたかに見えたのか、有間皇子は病も治ったと宮古に帰るのです。
  
 それが悲劇の始まりでした。謀反を企てたという名目で南紀の牟婁の湯にひきたてられ、有間皇子は処刑されました。絞殺とも言われています。まだ19歳という若さでした。
 この時詠んだのが、先の「旅にしあれば、」の歌でした。ひとえに、これは中大兄皇子の陰謀とされていますが、死に行く人が詠んだ歌であったからこそ、この歌は、万葉集でも「挽歌(人の死に関する歌が集められている)」に入っているのです。
 辞世の歌であれば、森田康之助『やまと心』の「践祚(せんそ)大嘗祭」に書いてあったように、物忌みの儀式の際と同じで、椎の葉に盛ったご飯は、「天皇は柏で作った十枚の葉盤(ひらで)にご飯や神饌を盛り、御神酒とともに、食べる。」に、つながるのです。
  大嘗祭は「死」と「再生」の儀式であり、天皇はこの時、葉盤(ひらで)に盛ったご飯を食べ、「真床覆衾(まとこおふふすま)」の儀式により、神祖である邇邇藝命(ニニギノミコト)の「御霊(ミタマ)」が身体へ入るのを待ちます。
 つまりこれをもって新たな天皇になる、御霊(ミタマ)の甦りの儀式なのです。 ということは、この時すでに「死」を覚悟した有間皇子は、椎の「葉盤(ひらで)」にご飯を盛り、「天神(アマツカミ)」と共に食すことで、御霊降(みたまおろし)の祈りを捧げ、それを辞世の歌としたのではないでしょうか。
 有間皇子の切実さが歌に読めます。決してご飯を食べるにも、「筒」(食器)が無かったから「椎の葉」で代用した、などという歌ではなかったと思うのです。
 むしろ大嘗祭と同じ、葉盤(ひらで)にご飯を盛ることで、邇邇藝命(ニニギノミコト)の正統の継承者(日継ぎの御子)であることを詠っていたのかもしれません。
 
 神宮館発行 山田照胤氏の『行事寳典(ホウテン)』には、神饌を盛る敷葉としての葉盤(ひらで)の名残として、「菓子などの下に白紙を敷きて、人に供するはこの遺風である。」と書いてあります。
 現在茶道などでも茶菓子を戴くのに懐紙を用いますが、それは当然“旅先で受け皿が無いから”“懐紙で代用している”のではなく、もうその意味を誰もが忘れてしまっているのかもしれませんが、亭主は客人に「神饌」として菓子を供しているという意味があったということですね。
 

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2008年2月14日 (木)

橋本進吉『古代国語の音韻に就いて』

Photo   古代日本の言葉を考えるに相応しい本がありましたので紹介します。

 
  橋本進吉『古代国語の音韻に就いて』(岩波文庫)には、「どれだけの違った音でその言語が組立てられているか」「その言語にはどれだけの違った音を用いるか」ということが書いてありました。「或る音は或る国で使うけれども或る国の言語では使わない」、確かにそうですよね。特に子音の多い外国語の発音では、日本語には無い発音が多くあります。 
  これを読みながら、上田秋成と本居宣長の、古代日本に【ん(n)】はなく【牟(mu)】と発音していたという論争を思いました。その論争に関しての考察を以前、このブログにも二度に渡って書きました。
 
 「神かむm」と「神かんn」の考察 本居宣長vs上田秋成 http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/vs_22f5.html
 
 本居宣長vs上田秋成【む】と【ん】の『『呵刈葭(かがいか=あしかりよし)』論争(2)http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/vs__43f9.html
  
  二人が何を論争したかと言えば、古代日本語の「表記」と「発音」の違いを研究していた本居宣長は、『古事記』や『万葉集』に記された古代の万葉仮名の「加牟加是(神風)」という表記を見て、「神」を【かん」とは発音しなかった、「神」は【加牟=かむ(mu)】と発音していた、古代に「ん【n】」という発音は無かったと言い切っているのです。
  それに俄然反駁したのが『雨月物語』などでお馴染みの上田秋成でした。表記は【牟=む(mu)】となっているが、それを【ん(n)】と読むのが日本語の習わしである。『私意もはなはだしい。』と、これが日本語論争として天下に鳴り響いた本居宣長と上田秋成、両者一歩も譲らない『音韻考』論戦の始まりでした。
  
  それまで口伝で伝えられてきた『古事記』を、万葉仮名という[文字]の表記に編纂したのが太安万侶でした。古代日本語の発音にそって、一字一句を漢字の音に合わせていったのです。ところが中国の漢字には【ん(n)】を表記する漢字が無かった! そこで、やむなく【牟(mu)】で代用していた。
  そう考えれば、何故古代日本人が【牟(mu)】という漢字を【ん(n)】と読んできたかが分かると思うのですが、いかがでしょう。
 万葉仮名という[漢字]だけで表記していた時代は【牟(mu)】としか書きようが無く、仕方がないからそれを【ん(n)】と読んできたけれど、[かな文字]が登場して、日本人は[ん]という文字を創造し、「いろは」に加えました。ところがそれまで永く【牟(mu)】と書いてきたので、やはり【ん(n)】を書く場合【む(mu)】と表記する風習だけが残ってしまった。
  この「表記」と「発音」の違いを改め、[ん]と書いて[ん]と発音するには、[新かな遣い]になるまで待たなければなりませんでした。
  これは、わたくしの個人的な見解ですが、今回この橋本進吉氏の『古代国語の音韻に就いて』を読みながら、そのような考えに到ったのです。
  
  橋本進吉氏はアイヌにおける[サ・シ・ス・セ・ソ]と[シャ・シ・シュ・シェ・ショ]の発音が、同じ音として発音されているということを書いておられますが、これは魚の[鮭(サケ)]を[シャケ]と発音することにもつながるのかもしれません。
 以前イラストレーター(今は画家として活躍)の横尾忠則さんの自伝を読んでいましたら、東京に初めて上京して食堂に入り、少し気取って[サケ]と注文したら[鮭]ではなく[酒]が来てしまったというエピソードを書いていましたが、江戸っ子が[鯛(たい)]を[てい]と言ったり、[広(ひろ)い]を[しろい]といったり、九州弁では[銭(ぜに)]を[じぇに]といったり、方言ではこのように同じことを言うのにも、違う発音をする場合が多くあります。言葉訛りというものも、「表記」と「発音」の違いを極端に表している例と言えるでしょう。
 
  また、英語では犬の鳴き声を[baubau]と書き、日本人は[ワンワン]と書きますが、こうした耳から入ってくる音声は特に、個人的な捉え方でも違い、擬音・擬態語の類は、表記との落差が一番大きいものかもしれません。 
 橋本進吉氏は「古代の言語については、昔の人がどれだけの違った音を聴き分け言い分けておったかということは、昔の人の文字に書いたものによって知るほか方法がないのであります。」と書いておられます。
  一昔前まで、【い】と【ゐ(wi)】や、【え】と【ゑ(we)】を使い分けていましたが、今はその微妙な違いも使われなくなってしまいました。現在残っている【は】と【わ】、【お】と【を】に関しては、使い分けていますが、発音はどちらも同じようになってしまっています。かろうじて【を(wo)】の発音は残っているでしょうか? ほとんど区別はされていないと思いますが、【は】と【わ】は[私は]という時、完全に同じ(wa)という発音になってしまっています。
  
  こうした「表記」と「発音」の問題以上に、『古事記』や『万葉集』を読んでいると、以前『古事記』ヒメ考にも書きましたが、同じ発音の[ひめ]という言葉に対し、【比売(ヒメ)】と書いてあるもの、【比賣】【毘売】【日売】と、違う漢字で表記されているなど、多くは同じ言葉でありながら、違う字を充てているという場合がたいへん多いのです。
 普通に考えれば、違う漢字を充てているのだから、当然、何らかの違いを示しているのではないか、とも考えられますが、「意味」よりもその漢字の読み=「音」が重要であったから、どの漢字を使っていても同じなのか、それは現在となっては定かではありません。
 契沖は、そうした研究をした人でもありますが、同じ[いる]ということばの「入る」は、【い】であり、「居る」は【ゐ】ということを明らかにしたのです。先程の【お】と【を】に関しても、[意、於、淤、乙]は【お郡】、[遠、乎、嗚、怨]は【を郡】と、はっきり区別をつけたのが契沖だったのですね。
  
  今一番関心を持っているのは、[高天原(タカマガハラ)]のように、本来【タカ・アマ・ガハラ】と読むべきところをフランス語のリエゾンのように、つなげて読んでしまうところでしょうか。万葉仮名でも[高天原]と表記されているので、実際はきちんと【タカ・アマ・ガハラ】と読まれていたのかもしれません。
  フランス語では末尾の子音が次の語の母音と結合しリエゾンされるのですが、この場合は【taka・ama】ですから、母音間の<aa>のうちの<a>が一つ抜け落ち【tacama】となっていることが分かります。
  また擬音として『古事記』には[許々遠々呂々]と書き、【こをろこをろ】=「コロコロ」と転がる様が書かれているのですが、[許々遠々呂々]と書いてあるのですから、普通に読めば【ここををろろ】と読むべきところです。転がる様は「ココヲヲロロ」と読んでもいいような気がしますが、どうなのでしょう。このあたりは、今後も更に突き詰めていきたいところです。
 

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2008年2月23日 (土)

『古事記』 「高天原」の清濁音韻考

 「高天原」は通常[(タカマ・ガハラ)]と読まれていて、広辞苑をひいてもその読み方で出てきます。そこには[(たかまのはら)]という読み方も書いてありますが、どちらにせよ【タカ・アマ】ではなく【タカマ】なのです。ところが、本来は【タカアマ・ガハラ】または【タカアマ・ノハラ)】と読むべきなのではないかと考え、フランス語のリエゾン風につなげて読んでしまうことに疑問を持ったことを先日このブログ【橋本進吉『古代国語の音韻に就いて』】で書きました。
 
  そこでいろいろ調べていましたら、『国語学』(東大出版)で築島裕先生は[(タカ・アマ・ノ・ハラ)]とリエゾンしないで、【タカ・アマ】と一字一字分けて読んでおられました。
 拗音もそうだと思うのですが、連音が短く切り詰められた言葉になるのは、もっと後の時代のことだと思いますので、当時の言い方ですと、「高天原」は[(タカ・アマ・ノ・ハラ)]と一字二音で読んでいくのが正しいと判断します。
 一応、それで連音問題は解決したと思うのですが、一方【タカアマ・ガ・ハラ】ではなく、【タカアマ・ノ・ハラ)】であることも気になって、更に当時の濁音について調べてみました。
 
  『古事記』には、「天之御中主神」のように、最初から[アメ・ノ]と、助詞の[之]が表記されている場合がありますが、たいていは「於高天原成神名」というように助詞が記載されておらず、こうした漢文調で書かれたところには、「返り点」や「一・二点」、「ニ」とか「ハ」とか、「ヲコト点」がつけてあります。一応その指示に従っていけば日本語風に読めるようになっていますが、どのような音で読むのか、その読み方は自分で勝手に考えるしかありません。一音一字であれば簡単なのですが、「高天原」ですから、一字二音の訓読みで読むとして、【タカ・アマ・ハラ】と助詞なしで読むことも充分考えられるわけです。あえて助詞を入れるとすれば、【ノ】で読んでいくのがより古代的な読み方ではないかと考えるのです。
  ちなみに中国読みをしてみると、【高(g a o)天(t i a n)原(y u a n)】と発音することになるようです。「高」は「kuao」に近い発音で読んでいたのではないかと思われますが、「天」は「テ」と「チ」の間で「ティ(ァ)ン」と発音するのでしょうね。「原」は日本語の音読みだと「ゲン」になりますが「ュァン」と発音をしているようです。現在の中国語の発音が日本の古代の発音であった[wa・wi・wu・we・wo]や[ya・yi・yu・ye・yo]の「ヰ」「ヱ」のような発音が今もそのまま残されているというのは興味深いところです。  
  このような中国語の発音を考えれば、きっと古代日本でも「高」の音読みが入ってきた時はまず先に閉鎖音である[g]からつづけて【ォゥ】というような発音をしていたのではないでしょうか。それが濁らない「高(コォ)」あるいは「高(コゥ)」という発音に直していったと考えられます。
  
  『古事記』の万葉仮名を読む時、「汝身者如何成」と記されている場合、私の持っている岩波文庫では、校注をされた倉野憲司氏が「汝“が”身は如何に成れる」と訳されています。つまり、「が」という濁音の助詞を入れて読んでいるのですね。
 では、ほんとうに当時の人も「~が」という助詞を入れて読んでいたのでしょうか。そのまま直訳すれあば、「汝(な)ノ身(み)ハ、如何(いかに)成(なれる)者(もの)ヤ?」と、「が」をあえて入れて読まなくても差し支えないわけです。
  上代日本では濁音ではなく清音で読まれていた言葉は多く、「山田」を表記するのに、一音一字では「夜未多(ヤマタ)」と書かれていたり、「蛇」を「ヘミ」、「紅葉」が「モミツ」と書いてあったりします。
 
  日本語が濁音を嫌い、清音を好んでいたと思われる事例として、今でも「~が、」という助詞を発音する場合、そのまま口をあけて【ガ】と強く発音するのではなく、息を鼻に抜けさせ鼻音で発音するということを習います。[ngua]といったような、本来の読み方はそうであったのですね。
  つまりつい最近まで、日本人はどうしても濁らなければならない言葉を使う時も、このように少しでも発音が汚くならないようにと、鼻音で発音するということをしてきました。同じように、「今日」は「ケフ」と書き、「蝶々」を「テフテフ」と書いてきました。「キョウ」とか「チョウチョウ」といったように、拗音を入れて書くようになったのも随分最近のことです。「引き張る」という言葉を「引っ張る」、「差し引く」を「差っ引く」と言うようになったのも同じで、もともとの日本語に拗音はなかったと言われています。 
 
  これらを考えるなら、『古事記』を読む場合、連音を略してリエゾンをすることはなく、拗音も入れず、濁音ではなく清音で読んでいくのが正しいのではないかと思うのですね。つまり「伊邪那岐命」を今では【イザナギ・ノ・ミコト】という読み方をしますが、これが書かれた当時は【イサナキ】と読んでいたのではないかということです。  
 そのように読むならば、「高天原」を【高天ヶ原】と読んではおらず、助詞を入れて読んでいたとしても、あくまでも【タカ・アマ・ノ・ハラ】と言って「ヶ(ガ)」では読んでいなかったと推測するのです。 
  とはいえ、当時の正しい読み方は知るよしもないのですから、もう少し古代日本の音韻をさぐりながら、検証をしていきましょう。 
 
  そこで、あえて濁音読みする言葉を探してみました。「浅茅原(アサヂガハラ)」は万葉仮名で「阿佐遅波良」と書いてあります。濁音の「ヂ」と読むべき漢字には「遅」があてられておりますが、この漢字は音読みするとしても「遅刻」の「チ」です。漢和辞典を調べても「遅」を「ヂ」とは読みません。中国語でも完璧に[ chi]と読みます。 すると最初から「アサチ・ハラ」であり、「アサヂ・ガ・ハラ」と読むようになったのは、よほど後になってからではないかと考えます。
 『古事記』は天つ神の時代の「上つ巻」と、天孫降臨後神武天皇代からの「中つ巻」、仁徳天皇からの代「下つ巻」と分かれています。「上つ巻」は言葉も一番古いものが伝承されていたと思われますので、このあたりを中心に別の言葉も検証したいと思います。
 
  『古事記』には、「高天原」についで有名な地名として「出雲」があります。これは「いずも」と読むのが普通で、「イツモ」とは読みません。これを清音で読んでいくというのは強引すぎるかもしれません。しかしこれが【izmo】のように、z音であれば、それは【ッ】に近く、濁音で読んではいなかったかもしれないのです。
  では「出」という漢字は中国ではどう読まれているのでしょう。調べてみました。『デイリーコンサイス日中辞典』(三省堂)で参照しますと、中国語に【衣着穿戴(出で立ち)】という言葉がありました。発音は【yizhuo chuandai】となっています。
 「出」は「y i z h u o」と日本語の発音とほぼ同じで、[yi]と最初の発音は母音の「い」ではなく「ヰ」で発音され、「ず」は、まことにややこしい[zhuo(ッゥォ)]というような発音と考えればいいでしょうか。いずれにせよ、こうしたことから考えても「出雲」は「いずも」と、はっきりした日本語的発音ではなかったと言えるでしょう。
  一方「出雲」にはもう一つ万葉仮名で「伊豆毛」と表記されているものもあるのです。そこで「豆」の中国語読みも調べてみました。すると「d o u」と発音しているようです。であるならば、そのまま日本でも「伊(i)豆(dou)毛(mo)」と発音していたことが考えられます。このd音も閉鎖音で、現在の日本語ではほとんど発音しない音です。これを日本語で発音する場合、かなり口をすぼめ、「ッ」と「ヅ」あるいは「ト」に近い音で「du」と発音します。
  こうしてみると、「出雲」という漢字を読む場合、古代日本人が読んでいたのはあくまでも[za/zi/zu/ze/zo]のようなz音か、[da/di/du/de/do]のようなd音で読んでおり、現在の日本語の母音を強調する「ざ・じ・ず・ぜ・ぞ」「だ・ぢ・づ・で・ど」の、「ず」や「づ」という発音ではなかったことだけは確かです。あえて発音するなら[yizhuo-mo]といった感じでしょうか。
 
 そもそも濁点の始まりは仏典を読む際、漢字の横に[・][ヽ]のような「点」をつけ、[多・]と「多」に[・][ヽ]が付いていれば「ダ」と読むといったような記号がはじまりでした。返り点などと同じように、漢字だけではどう読んでいいのか、当時の日本の人は分からなかったからですね。つまりそれは、[・][ヽ]をつけなければ濁音として読めなかったということでもあります。 
 漢字に濁点がなかったので後から無理矢理つけたのか、日本語は清音だけで濁音をつけて読む習慣がなかったので、要注意として濁点がついたのか、まだまだ検討しなければならない課題ですが、そのあたりも踏まえながら、では「高天原」をどう読むかの考察にもどるとしましょう。
 
 日本の地名では「八ヶ岳」「槍ヶ岳」とか「関ヶ原」「大台ヶ原」とか、高い嶺や広い原には「~ヶ岳」「~ヶ原」といったように[ヶ(ガ)」のつく地名は多いのです。そこから考えれば[(タカマ・ガ・ハラ)]という読み方にも違和感はないのです。けれど、今まで考えてきたように[z音]や[d音]はあっても、現在使っているような濁音を使っていなかった古代日本語の在り方から考えるなら、こうした「ヶ(ガ)」をつけた読み方は、かなり後世になってから使われるようになったものではないかと考えるのです。 
 もう一つ、「○○ヶ原」と「ヶ」のついた地名や「原」のついた地名を調べていて気になったことがありました。九州や沖縄の地名では「西戸原(さいとばる)」のように[原]を【ハラ】とは読まず、【palu(ハル)】とか【balu(バル)】という読み方をしている所が多いのです。
 
 古代日本語の音韻では「人」は【pito(ピト)】と読まれていて、それが【fito】となり、【hito】と言うようになったと、『国語学』(東大出版)や『日本語の世界5 仮名』(中央公論社)の築島裕先生は言われております。
 日本語の変遷で言えば、「東人(アヅマビト)」というような、「人」を「ビト」と読む言い方は一番新しく、古代に遡るにつれ「濁音」ではなく「清音」の「ヒト」という言い方を使い、更にもっと遡れば「破裂音」で【pito(ピト)】と発音されていたということになるのです。そう考えれば、「西戸原(さいとばる)」の「原」も【palu】という読み方をされていたと考える方が自然ですよね。最初が[P音(パピプペポ)]で、それが[b音(バビブベボ)]に変化していったのではないかと考えられるのです。
 これらを総合しても、やはり濁音は日本語として後から出てきたと考えるのが正しいのではないでしょうか。

  アイヌ語では「ヌプリ」「サッポロ」など、[P音(パピプペポ)]の地名や言葉が大変多く、それは九州や沖縄地方にも多く見られます。これらの地方の言葉には、まだ日本の音韻の一番古いものが残っているのでしょう。事例も多く、「赤平」を「ヒラ」ではなく【aka・pila】と発音するなど、破裂音のままの発音形態が残っているのですね。
 興味深いことに、アイヌ語で発音する「pala(パラ)」という言葉は、「広い」ということを意味する言葉だそうで、野原のような広がりを持ったところをきっと「原(パラ)」と言ったのでしょう。「高天原」はそういった原義の意味からしても広い「原」にあり、きっと当初は[P音]の【pala】で読まれていたと思われます。

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