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2008年2月 2日 (土)

新井白石『古史通』と『或問』『読史余論』

 新井白石は江戸中期、幕府に仕えた儒学者である。『古史通』とは、古事記などの日本の古代史について考察されているものなのですが、驚くべきことに、当時の道徳観がそうであったからなのか、新井白石の個人的な見解なのかが定かではないのですが、どうも極めて独断的な歴史観が述べられているのです。
 『古事記』には、国産みをした神として、伊邪那岐と“妹”伊邪那美の名があります。古代の日本の婚姻制度には近親婚も多く、妻や夫を「妹(イモ)」「兄(セ)と呼ぶ習わしも、その名残かと思われます。
  ところが、新井白石は、そういった「兄」と「妹」が結ばれるという不道徳な婚姻の形態を認めたくないらしく、「道徳的でないことが書かれているのは誤りで、記述が正しくない。」と言っているのです。
  おやおや、いきなりそうきますか、と、たとえ新井白石の道徳観と古代の婚姻形態がズレていたとしても、書かれてあることが「間違っている」とは、あまりに学者らしからぬ発言ではありませんか。実の兄妹の結婚はさすが古代でもありませんでしたが、父母どちらかが違えば、血族婚もあったのかもしれません。  
 むしろ近親婚は普通に見られることでした。聖徳太子の父用明天皇も、母である穴穂部間人皇女も、蘇我稲目の娘の子供であり、つまり用明天皇と穴穂部間人皇女は従兄弟同士ということになります。

   当時は特に天皇家のような高貴な身分の人々は、その血を保つことで身分の高さを保持するため、叔父叔母などの近親婚もあたりまえに行われていました。聖徳太子の家系は蘇我氏の威光の強さが反映しているものと考えればいいでしょう。
 こうした古代の婚姻制度に対し、「小姪叔異母父子の婚姻に秩序のないありさまを述べたりしている。道徳上の教えにおいて、何を教えとし、鑑戒において何を戒めとするのか、明らかにされてはいないのである。」とあります。
 『古事記』では邇邇藝能命(ニニギノミコト)が麗しき美人であった木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)を嫁に欲しいと申し出ると、父である大山津見神は姉の岩長毘売も一緒にやるというのです。もちろん現代人の感覚から言えば、姉妹が同じ男に嫁ぐことは、驚くべきことですが、この時代にはそうしたことも普通に行われていたのでしょう。格別変わったこととして書かれているわけではないのです。ただこの岩長毘売がたいへん醜かったので、「甚凶醜(イトミニクキ)によりて、見畏みて返し送り」とあるのです。妹を嫁に欲しいといったところ、姉も一緒に来たが、姉が醜かったので要らないと送り返したのですね。 
 つまり蘇我稲目の娘二人が、聖徳太子の父である一人の男(用明天皇)に嫁いだことも、神話時代から続いていた習わしであって、当時は、同じひとりの男に姉妹が同時に嫁ぐということもまヽあったのでしょう。
 ですから古代に書かれたことが多少奇異に見えても、それは古い時代の因習を写す貴重な資料と考えなければならないはずですが、これを新井白石は「すべてこれらのたぐいを見れば、父子兄弟のあいだで道徳が正しく行われていたとは考えられないことばかりである。」と、言って切り捨てています。
 当時の江戸の学者の道徳感がこのようなものであったことは、かえって興味深く思えましたが、これだけではありません。さらにさらに、新井白石の過激な歴史観は続くのです。

 『古事記』には、伊邪那岐と伊邪那美のふたりの最初の子供が「水蛭子(ヒルコ)」であったために、水に流して葦船で流したことが書いてありますが、そうしたことも、「書かれた内容が正しくないことが自然に明らかになるであろう。」と、述べています。 
 これは以前このブログ【『古事記』王権と男女の交合(まぐあい)】、
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/09/post_096e.html にも書きましたが、『古事記』では最初伊邪那美が先に声を発したがために、伊邪那岐から『女人先に言へるは良からず』と、水蛭子(ヒルコ)が生まれたことになっています。そこで、その子は葦の舟に入れて流してしまうのですが、『古事記』原文では以下のように記されています。

 伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。
 爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在。
 故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。
 爲生成國土奈何 伊邪那美命答曰然善。
 爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行迴逢是天之御柱而。
 爲美斗能麻具波比 如此云期。
 乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。約竟以迴時。
 伊邪那美命先言阿那迩夜志愛袁登古袁
 後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。
 女人先言不良。雖然久美度迩 興而生子、水蛭子。
 此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。


 最初の子供は間違った方法で交合い、水蛭子(ヒルコ)が産まれてしまったため、そこでもう一度ふたりは子づくりをやり直して、伊邪那岐は『乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。(あなたは右から廻りなさい。私は左から廻り、お互い逢いましょう。)』と、今度は伊邪那岐が先に言葉を発し、ようやく“正しい交合い”ができ、日本列島の島々=淡路島など、国産みをしていきます。

  江戸時代も貧しい農村で堕胎は普通に行われていたとも言われています。『古事記』にある水蛭子(ヒルコ)というのが、早産であったのか、未熟児であったのか、蛭(ヒル)のような手足の無い奇形児であったのかは分からないのですが、海か川に流してしまうというのは、新井白石の道徳観からすれば、考えられないことだったのでしょうか。
 けれど、江戸時代だって、産まれてすぐの赤ちゃんを、何らかの理由で親が育てられず、「赤ちゃんポスト」のように、捨てる場合も多くあったのではないかとも思うのです。
 伊邪那岐・伊邪那美夫婦のみならず、水蛭子(ヒルコ)が葦船に乗せ流されるというお話が、実は神話だけのことではなく、普通にあった話しだからこそ、「桃太郎」が川から流れてきておじいさん、おばあさんに拾われたり、「かぐや姫」が竹藪で翁に拾われたりしたのではないでしょうか。むしろ「捨て子」は普通にあることだったのではないかと思うのです。たまたま拾った老夫婦は、それが他で捨てられた子とは思わず、神様からの授かりものと考え大事に育てたのではないでしょうか。

  『古史通或問』は問答形式になっていて、QandA、邪馬台国や卑弥呼などにもふれ、「問い」に対しての「答え」という形で進んでいきますが、新井白石は建速須佐之男命(素戔嗚尊)に関して言えば、韓(カラ)に天降ったと書いています。建速須佐之男命の伝承には高天原を追放された後、韓国に渡り、それから出雲に来たという話しや、建速須佐之男命が韓神である熊野の牛頭天皇と同一視されるなどありますが、これはあくまでも伝承と思っていました。ところが、どうやらこの時代はその伝承がそのまま信じられていたらしいことが、白石の書いたものから分かりました。
 また、古代日本民族が騎馬民族に征服されたという説や、日本人のルーツは韓国にあるという説は今でもありますが、「朝鮮の民族・風習と我が国の関係」と題した中で、白石はそうした考えに対し否定的な見解を述べています。理由は、韓国の歴史が日本の天皇の歴史より新しく、よって、日本民族の祖が韓国にあるというのは間違っているということらしいのですが、「あなたがもし馬韓とのつながりについて疑いをいだいているならば、あなたの眼には、ことごとく馬韓とのつながりがうかびあがってくるだろう。」と、ここで初めて新井白石は学者らしいことを述べています。
 邪馬台国論争もその一つですが、確証が無くても断定的に語っている本が世間には多くあります。研究者が陥りがちな盲信の戒めとでも言いましょうか、どんな学者にも言えることですが、何かを関連づけようと最初から意図していれば、どんなことも関係があるように考えてしまうことは、よくありがちなことです。けれどそれこそが真の研究にとっては大きな落とし穴であり、澄んだ眼を曇らせる一番の危険因子とも言えます。
 はじめて、学究に対するまともな言葉にであって、ほっとするのですが、それもすぐ翻ります。古代の様々な言葉の表記に対する考察では、「卑弥呼」という呼称も「日御子」であると言い、このあたりの推察は小気味よく読めるのですが、どうも新井白石の歴史観は、古史に書いてあることも、彼の価値観に無いことは真実ではなく、誤ったことが書いてあると頑として言い張るのです。
 これは自分が述べている、真理を探究する学者としての心がまえとは矛盾するように思えるのですが、どうなんでしょうね? 
 
  『読史余論』には、「壬申の乱」に対する記述があって、天智天皇の皇子である大友皇子を討ち政権を奪った天武朝が7代で断絶したこと、天智系の光仁天皇以降、現在まで天皇家が天智系であるのは、「天が道徳的に正しい側に味方したことは明白といえよう。」と書いてありました。なんと、天武朝は逆賊扱いなのです。
 これも江戸時代には一般に流通していた史観であったのか、新井白石個人の考えであったのか、よく分からないのですが、いずれにせよ、「あなたがもし馬韓とのつながりについて疑いをいだいているならば、あなたの眼には、ことごとく馬韓とのつながりがうかびあがってくるだろう。」と、言った人の言葉とは思えない、史実を史実のまま見るのではなく、かなり感情的な私見を交え歴史を見ているではないかと思える言説が続きます。
 これが当時の幕府や儒学者の一般的な考えだったのか? 宗教観に関しても、驚くべき見解でして、なんと、仏教に関して「憎むべき仏教勢力」ということを書いているのです。彼が儒学者であったとしても仏教勢力が“憎むべきもの”であったとは、穏やかならぬものがあります。
 彼はこう書いているのです。「比叡山の僧はいうまでもなく、法華宗(日蓮宗)、一向宗(浄土真宗)の僧徒、高野山・根来寺の僧徒らも、」と、仏教勢力が大きな力を持っていることを苦々しく書いていて、信長が比叡山と根来寺を焼き滅ぼしたことを「大きな功績であった。」とまで書いています。
 江戸時代にも大きな一揆があり、そうした反乱には法華経や、一向宗などの集団が関わっていましたから、分からないでもないですが、白石が民衆側にいる人ではなく幕府側の人間であったからこそ、お上に逆らう集団は許せない、という意味の発言になったのでしょうか。

 彼の儒教精神は、自分の兄弟も無慈悲に殺した冷徹な頼朝にも批判の眼が向けられ、「ついには北条氏のために後継者を滅ぼされてしまった。天のむくいは的確であるとはいうものの、そもそも彼自身に根を発していたことであった。」と、実朝が公暁に暗殺された顛末も天の報い、頼朝が行ったことの因果応報と言っているのです。
 たしかに忠孝忠義、信、仁、愛、誠、礼、義などをモットーとする儒教精神からすれば、我が兄弟、親類縁者を殺すなどもってのほかかもしれません。君子に対する逆賊や謀略も同じで、「爾より出で爾に帰る」と孟子の言葉を曳き、善悪福禍みな自ら招くという考えを示していますが、どんな歴史的事件も、すべて、結局「報いが来て滅んだのは当然」という結論になっていて、鎌倉三代、頼朝はじめ正子、北条氏が滅んだのも、室町三代幕府が滅んだのも、信長が最期光秀の謀反で殺されたのも、豊臣家が滅んだのも、みな「あさましき世の習い」と、天の報いで片づけられてしまうのもどうかなと思うのです。
 新井白石は江戸の大学者とも言われている人です。なので、彼の歴史観がどのようなものであるのか、かなり期待を持って読んだのですが、古代史を読み解き、日本を読史した結論が、すべて「爾より出で爾に帰る」であり、政権が交代し、時代が変わり、歴史が変遷してきたことを、「天の報い」に結論づけるとは正直驚きでした。とても歴史家の見る目ではありません。
 結局、滅んできた者たちの最期がよろしくないのは自業自得と言い、我が神祖(徳川家康のこと)に家臣は忠孝忠義であったから、江戸幕府が永きに渡って滅ぶこともなく、世の中は天下太平であると、徳川家の神祖家康を褒め称えています。
 おやおや、やがて徳川も滅び、天下が変わるとは考えていなかったようですが、さて、では徳川幕府が滅んだのは因果応報だったのでしょうか。?
  
  こうした江戸の学者に蔓延していた儒学的歴史解釈に対し、「漢意(からごころ)」を排除し「古えのまことの意(こころ)」をとらえようとしなければならないと、「大和魂(やまとごころ)」によって読み解いていくべきだと主張したのが本居宣長でした。
 そして、「古(いにし)えのまことの意(こころ)」を知るには、何よりもまず「古言」を知らなければならない。それが宣長が三十五年という歳月をついやして『古事記』を読み解いていく発端でもあったのです。
 

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