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2008年2月 7日 (木)

森田康之助『やまと心』践祚(せんそ)大嘗祭

         Photo  森田康之助『やまと心』(錦正社)という本があります。皇国史観に基づいた内容で、そこは省きますが、「践祚(せんそ)大嘗祭」と、大嘗祭の儀式の様子を詳しく書いたものがあり、たいへん興味深いことが書かれてありましたので、紹介します。

    この「践祚(せんそ)」の「践」とは、踏むという意味。「祚」は主人が堂に登る東側の階段をいい、これは天皇が即位したときに「高御座」(たかみくら)への階段を踏み、壇上に上がることを云うのでしょうね。ちなみに現在も高御座は京都御所の紫宸殿にあって、大正天皇以降、即位のときに用いられてきたということです。玉座には椅子が置かれていますが、この高御座は高さ1メートルの基壇の上に、更に3メートルの八面の屋形を組んであり、屋根の上には鳳凰、端にはたくさんの鏡が鈴なりに垂らしてあるそうです。
           
  新嘗祭という言葉は稲積をニュウ、ニフ、ニホ、と呼び、そこから「ニヒナエ」「ニハナエ」という言葉に漢字を当てはめたものと思われると、森田氏は書いていますが、日本の神事はほとんど稲作に関連しています。
 収穫の齋場としてト定田と北野に施設をつくり、卜部など朝廷の使いが遣わされ、大祓えが行われる。物部氏なども、行事に参加し、最初に抜いた稲が八神殿の横の高萱の御倉に奉納される。
 東山天皇の代まで加茂の河原で10月下旬、禊ぎが行われたが、宮中で行われることにと、書いてありましたが、大嘗祭前の加茂川頓宮では「東御禊幄(ひがしおんみそぎあく)」という行事がされていて、ここでは「死」と「再生」二脚の椅子を置き、ひとつは刀が置かれ、皇太子は西の門から入り東に面して座り、日神と霊替わりをしたとされています。これで皇太子ではなくなり、日の子(天皇)となるわけですね。
 京都鴨川神社の御阿礼祭は葵祭の3日前の中午の日の夜に行うそうですので、きっと古代は天皇自ら、鴨川でその儀式をしていたのでしょう。
  
  『王権の神話』井本英一(法政大学出版)には、持統天皇の即位式は元旦と翌日の2回行ったとあります。興味深いことに、一日目は日本古来の即位式。二日目は外国式であったと言います。
 この本の中にはもう一つ、高御座が八角壇であるということにも関連するのですが、「夢殿」も八角、東大寺、猿田彦神社の「八角柱」、他にも「八色(やくさ)の姓(かばね)」「八紘一宇!」と、「八」という数が日本では重要な意味を持つものであると書いてありました。
  太平洋戦争の真珠湾攻撃も「12月8日」でしたが、これは決して偶然この日が選ばれたわけではなく、実はこの12月8日というのは『臘日(ろうじつ)』といい、年の変わり目、新たな年を迎える日なのです。大嘗祭が12月なのも、そういった意味があってのことなのでしょう。

  さて、大嘗祭では、御讀物(みあがもの)としての人形(ひとがた)を以て、主上は聖躬を左右中となで、その後米を散じて清めると、あります。
 左右中という言葉で思い出すのは、今でもお相撲さんが懸賞金を貰うとき、手刀を切る様子を土俵の上でしていますので、よく見ることができますが、この左右中というのは、天地開闢の造化の三神、「神皇産霊神(カミムスビノカミ)」「高皇産霊神(タカミムスビノカミ)」「天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」の三神のことを言います。
 ですから、「聖躬を左右中なで」とあるのは、三神に対してのお祓いなのでしょう。自分の手ではなく「人形(ひとがた)を以て」とあるのにも注目するのですが、これは聖躬が三神に見立ててあるからでしょうか。
 
  一ヶ月の物忌みの記述は、皇極天皇(642)、天武(674)あたりから、日本書紀にあると書いてありました。藤原氏の祖中臣、忌部が神官でした。ここでは、『中臣寿詞(なかとみのよごと)』という吉祥の詞を奏で、神代の古事(フルコト)が宝詞となっています。忌部が鏡と剣を奉ります。
 注目するのは、忌部は「鏡」と「剣」を奉りますが、ここに三種の神器である「勾玉」がありません。森田氏によれば、直接天照大神から邇邇藝命(ニニギノミコト)の「みたま」を戴くので、「玉」は無いということらしいのです。

     北
     |
     |
西――――――――――東
     |\
     | \
     南   ◎←東南の神坐に天照大神


   「北」は天皇の玉座で、東南の神坐に天照大神が居るとされています。儀式では、中臣寿詞の奏があり、隼人が“吠声”を発するとあります。「隼人(ハヤト)」といえば、火照命(ホデリノミコト)を祖とする薩摩地方の隼人族をいい、大嘗祭で演じられる「隼人舞」とは、海水に溺れ苦しむ様子を演じたものです。
 では何故、海に溺れる様子を舞ったものを大嘗祭という大切な儀式で舞うのでしょうか? 古事記にはちゃんと、その理由が書いてあります。

  火照命(ホデリノミコト)は、この日本に天降った邇邇藝命(ニニギノミコト)と木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた子供で、「海幸彦と山幸彦」の神話で有名な兄・海幸彦のことです。
 海幸彦は漁をする素晴らしい釣針を持っており、弟の山幸彦(火遠命ホオリノミコト)は羨ましく思っていました。そこで兄に願い出て釣針を貸して貰います。ところがそれを海で無くしてしまい、兄の怒りにふれ、十拳劔(とつかのつるぎ)から五百の釣り針を作り、千の釣り針を作り償おうとしますが、兄は許してくれません。どうしても元の釣り針を返せと言い張るのです。
 そこで仕方なく、海の中へと探しにいきます。海の中には綿津見(わたつみ)の宮殿があり、そこには美しい豊玉比賣がいて、彼女は山幸彦を手厚くもてなし、ふたりは結婚します。彼女は赤鯛に針がささったままになっていることを見つけ、それで山幸彦は帰ることができるのですが、豊玉比賣は海神の娘であるので一緒に帰ることはできません。けれど、その時すでに子供ができており、その子が「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト)」であり、この日高日子波限建鵜葺草葺不合命が玉依毘売を娶って生まれたのが、「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコ)」、神武天皇なのです。
 これ以前「天皇」と表記されている人はいません。「神」か「命」で表記されています。ですから、山幸彦「火遠命(ホオリノミコト)」の子である「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト)」の子、「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコ)」から「天皇」と呼ばれる古代日本の歴史が始まるのです。
 
 さて、山幸彦は、海神より綿津見宮から帰るとき、潮が満ちる玉と、潮が干く玉を貰って帰ってきます。洪水も自由に起こすことができ、それで兄を懲らしめ、兄は弟に服従を誓います。
 自在に洪水を起こし、溺れさせることができたので、それが「隼人舞」の海で溺れる仕草になっているのです。また隼人が犬の吠え声を出すのは、隼人が服従して後、宮の警護にあったからと古事記には書いてあります。
 つまり、そうした古事記の中に書かれた事が、単なる神話のお話などではなく、実際の宮中行事の中に今尚残っているということなのですね。これは、天皇家が「古代日本」をそのまま儀式に受け継いできたということでもあり、神話の時代よりの「日継」の継承者であるということです。

 物忌みの最中、天皇は柏で作った十枚の葉盤(ひらで)にご飯や神饌を盛り、御神酒とともに、食べます。儀式の時刻は戌の刻(午後八時)から翌朝寅の一刻(午前三時半)すぎまで、深夜に行われます。
  ここで「真床覆衾(まとこおふふすま)」という言葉がでてきます。大嘗祭には上座として衾が用意され、内侍が八重畳に薦(こも)を巻いた枕を用意する、とあります。これは天照大神の命(御言)を持って天降った邇邇藝命(ニニギノミコト)の「御霊(ミタマ)」が身体へ入るまで籠もるためで、これをもって天皇は“生き通しである”「御生(ミアレ)ます」ということになります。


 最後に森田氏は、世間にある天照大神の岩戸隠れを日食に関連づける説を否定しています。むしろ冬至太陽の衰え、その活力復活の祭りが岩戸の祀り神事であって、鎮魂祭と新嘗祭は一つづきに行われた祭儀と言っています。確かにそのように言われれば、そうであるようにも思えます。
 いずれにせよ、忍穂耳命(オシホミミミコト)を始め、邇邇藝命、高皇産霊(タカミムスビ)にせよ、神々の名が成熟した稲穂や熟れた稲穂という意味でつけられていることと、現在でも日本各地の神社の一番大事な祭祀は稲の吉凶を占うことであり、豊饒万作を祈ることであることなどを考えるなら、冬至太陽の一番衰える時期に、その活力復活を祈る鎮魂祭と新嘗祭という考えは理にそったものと言えるのではないでしょうか。

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