『万葉集』考察 有間皇子の挽歌とその解釈をめぐって
さて、昨日紹介した森田康之助『やまと心』の「践祚(せんそ)大嘗祭」http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2008/02/post_afbb.htmlに関する記述は、大変興味深いものでしたが、ここで注目するのは、一ヶ月の物忌みの儀式の際、「天皇は柏で作った十枚の葉盤(ひらで)にご飯や神饌を盛り、御神酒とともに、食べる。」とあったことです。
「十枚の葉盤(ひらで)」ということは、何かの植物の「葉」を食器代わりにしたということです。そこで思い出すのが、万葉集の巻 第二 142「挽歌」として有名な、有間皇子の歌です。
家に在れば筒(ケ)に盛る飯(イヒ)を草枕
旅にしあれば椎(シヒ)の葉に盛る
古文の教科書にも載っているので、よく知られた歌の代表格ともいって良いでしょう。私の持っているのは、岩波書店「日本古典文学大系4」の「万葉集 一」で、高木市之助、五味智英、大野晋氏などが編纂、解釈の解説をされています。そこでの解釈は、古文の授業で聞いたのと同じ、『旅の途中であるから食器が無く、木の葉を代用してご飯を食べた』ということになっています。
「なるほど、旅の途中であるから、木の葉を食器代わり」と、そのまま素直に受け止めていました。
が、少し考えてみれば、家でも「筒(ケ)に盛る」と、竹の筒の簡素な食器であったわけですから、重くて持ち運べなかったというほどの物ではありません。まして皇子のような高貴な人が一人で旅していたわけでもありません。従者がたくさんいての旅です。「筒」ひとつ持ち運べなかったとはとうてい思えないのです。
以前このブログにも書いた、【『江戸の旅文化』神崎宣武 岩波新書
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/03/post_6443.html】
にも、庶民の旅の形態が様々に書いてあり、宿泊に際しても、食事付きの立派な旅籠から、寝るだけの木賃宿、野宿しながらの自炊する旅もありました。日帰りではないのですから、旅に出ると決めた時から、「食事」のことも考えるわけです。泊まるところが食事付きの宿屋ではないなら、当然米を持って、鍋やお椀、箸一膳を携帯するのです。これは「旅」に出る前から準備として当然のことでしょう。
では、いくら時代が古いからといって、有間皇子の従者はそうしたものを用意しなかったのでしょうか。仮にも皇子です。従者は道端の椎の葉を取って皿代わりにしたというのでしょうか。
この歌を詠んだ時、有間皇子の「旅」は、物見遊山の旅ではありませんでした。謀反を企てたという理由で、斉明天皇が湯治をしていた紀伊へ護送され、藤白坂で処刑になります。この歌はその時詠んだ辞世の歌ともされているのです。
大化改新以後、皇極天皇の時代、後継者として弟の軽皇子と皇極天皇の息子である中大兄皇子(天智天皇)の名があがりました。皇極天皇の弟である軽皇子が孝徳天皇とななりますが、実権を持たなかった天皇とも云われています。653年には、中大兄皇子が孝徳天皇を無視し、皇極天皇はじめ、一族郎党ひき連れて難波宮から飛鳥へともどってしまうという事件が起きます。翌年難波宮で孝徳天皇は病になり、亡くなります。有間皇子はこのとき15歳でした。
孝徳天皇が亡くなると、中大兄皇子の母皇極天皇が再び斉明天皇として即位しました。父孝徳天皇が無くなり、後ろ盾がなくなった有間皇子は、中大兄皇子との政権争いを避けるため、狂ったふりをして、治療のため紀伊の牟婁(むろ)の湯に籠もります。皇子が狂ったふりをするというのは、まるで『ハムレット』を見ているようです。ところが、政権も落ち着いたかに見えたのか、有間皇子は病も治ったと宮古に帰るのです。
「十枚の葉盤(ひらで)」ということは、何かの植物の「葉」を食器代わりにしたということです。そこで思い出すのが、万葉集の巻 第二 142「挽歌」として有名な、有間皇子の歌です。
家に在れば筒(ケ)に盛る飯(イヒ)を草枕
旅にしあれば椎(シヒ)の葉に盛る
古文の教科書にも載っているので、よく知られた歌の代表格ともいって良いでしょう。私の持っているのは、岩波書店「日本古典文学大系4」の「万葉集 一」で、高木市之助、五味智英、大野晋氏などが編纂、解釈の解説をされています。そこでの解釈は、古文の授業で聞いたのと同じ、『旅の途中であるから食器が無く、木の葉を代用してご飯を食べた』ということになっています。
「なるほど、旅の途中であるから、木の葉を食器代わり」と、そのまま素直に受け止めていました。
が、少し考えてみれば、家でも「筒(ケ)に盛る」と、竹の筒の簡素な食器であったわけですから、重くて持ち運べなかったというほどの物ではありません。まして皇子のような高貴な人が一人で旅していたわけでもありません。従者がたくさんいての旅です。「筒」ひとつ持ち運べなかったとはとうてい思えないのです。
以前このブログにも書いた、【『江戸の旅文化』神崎宣武 岩波新書
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/03/post_6443.html】
にも、庶民の旅の形態が様々に書いてあり、宿泊に際しても、食事付きの立派な旅籠から、寝るだけの木賃宿、野宿しながらの自炊する旅もありました。日帰りではないのですから、旅に出ると決めた時から、「食事」のことも考えるわけです。泊まるところが食事付きの宿屋ではないなら、当然米を持って、鍋やお椀、箸一膳を携帯するのです。これは「旅」に出る前から準備として当然のことでしょう。
では、いくら時代が古いからといって、有間皇子の従者はそうしたものを用意しなかったのでしょうか。仮にも皇子です。従者は道端の椎の葉を取って皿代わりにしたというのでしょうか。
この歌を詠んだ時、有間皇子の「旅」は、物見遊山の旅ではありませんでした。謀反を企てたという理由で、斉明天皇が湯治をしていた紀伊へ護送され、藤白坂で処刑になります。この歌はその時詠んだ辞世の歌ともされているのです。
大化改新以後、皇極天皇の時代、後継者として弟の軽皇子と皇極天皇の息子である中大兄皇子(天智天皇)の名があがりました。皇極天皇の弟である軽皇子が孝徳天皇とななりますが、実権を持たなかった天皇とも云われています。653年には、中大兄皇子が孝徳天皇を無視し、皇極天皇はじめ、一族郎党ひき連れて難波宮から飛鳥へともどってしまうという事件が起きます。翌年難波宮で孝徳天皇は病になり、亡くなります。有間皇子はこのとき15歳でした。
孝徳天皇が亡くなると、中大兄皇子の母皇極天皇が再び斉明天皇として即位しました。父孝徳天皇が無くなり、後ろ盾がなくなった有間皇子は、中大兄皇子との政権争いを避けるため、狂ったふりをして、治療のため紀伊の牟婁(むろ)の湯に籠もります。皇子が狂ったふりをするというのは、まるで『ハムレット』を見ているようです。ところが、政権も落ち着いたかに見えたのか、有間皇子は病も治ったと宮古に帰るのです。
それが悲劇の始まりでした。謀反を企てたという名目で南紀の牟婁の湯にひきたてられ、有間皇子は処刑されました。絞殺とも言われています。まだ19歳という若さでした。
この時詠んだのが、先の「旅にしあれば、」の歌でした。ひとえに、これは中大兄皇子の陰謀とされていますが、死に行く人が詠んだ歌であったからこそ、この歌は、万葉集でも「挽歌(人の死に関する歌が集められている)」に入っているのです。
辞世の歌であれば、森田康之助『やまと心』の「践祚(せんそ)大嘗祭」に書いてあったように、物忌みの儀式の際と同じで、椎の葉に盛ったご飯は、「天皇は柏で作った十枚の葉盤(ひらで)にご飯や神饌を盛り、御神酒とともに、食べる。」に、つながるのです。
この時詠んだのが、先の「旅にしあれば、」の歌でした。ひとえに、これは中大兄皇子の陰謀とされていますが、死に行く人が詠んだ歌であったからこそ、この歌は、万葉集でも「挽歌(人の死に関する歌が集められている)」に入っているのです。
辞世の歌であれば、森田康之助『やまと心』の「践祚(せんそ)大嘗祭」に書いてあったように、物忌みの儀式の際と同じで、椎の葉に盛ったご飯は、「天皇は柏で作った十枚の葉盤(ひらで)にご飯や神饌を盛り、御神酒とともに、食べる。」に、つながるのです。
大嘗祭は「死」と「再生」の儀式であり、天皇はこの時、葉盤(ひらで)に盛ったご飯を食べ、「真床覆衾(まとこおふふすま)」の儀式により、神祖である邇邇藝命(ニニギノミコト)の「御霊(ミタマ)」が身体へ入るのを待ちます。
つまりこれをもって新たな天皇になる、御霊(ミタマ)の甦りの儀式なのです。 ということは、この時すでに「死」を覚悟した有間皇子は、椎の「葉盤(ひらで)」にご飯を盛り、「天神(アマツカミ)」と共に食すことで、御霊降(みたまおろし)の祈りを捧げ、それを辞世の歌としたのではないでしょうか。
つまりこれをもって新たな天皇になる、御霊(ミタマ)の甦りの儀式なのです。 ということは、この時すでに「死」を覚悟した有間皇子は、椎の「葉盤(ひらで)」にご飯を盛り、「天神(アマツカミ)」と共に食すことで、御霊降(みたまおろし)の祈りを捧げ、それを辞世の歌としたのではないでしょうか。
有間皇子の切実さが歌に読めます。決してご飯を食べるにも、「筒」(食器)が無かったから「椎の葉」で代用した、などという歌ではなかったと思うのです。
むしろ大嘗祭と同じ、葉盤(ひらで)にご飯を盛ることで、邇邇藝命(ニニギノミコト)の正統の継承者(日継ぎの御子)であることを詠っていたのかもしれません。
神宮館発行 山田照胤氏の『行事寳典(ホウテン)』には、神饌を盛る敷葉としての葉盤(ひらで)の名残として、「菓子などの下に白紙を敷きて、人に供するはこの遺風である。」と書いてあります。
現在茶道などでも茶菓子を戴くのに懐紙を用いますが、それは当然“旅先で受け皿が無いから”“懐紙で代用している”のではなく、もうその意味を誰もが忘れてしまっているのかもしれませんが、亭主は客人に「神饌」として菓子を供しているという意味があったということですね。
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