新井白石「漢意(カラゴコロ)」vs本居宣長「やまと心」
今まで『古事記』を何度読んだかしれません。今回は新井白石の儒学的史観「漢意(カラゴコロ)」に対する本居宣長の「古(いにし)へのまことの意(こころ)」という「やまと心」の視点で読んでみました。
『古事記』の内容をかいつまんで話せば、伊邪那岐(イザナギ)と妻の伊邪那美(イザナミ)神の二人が、古代日本(大八州國オオヤシマクニ=淡路島、本州(大倭豊秋津島)、九州、四国、対馬、壱岐島、隠伎島、佐渡ガ島)を国産みしていきます。ここで注目するのは、本州・九州・四国と比べてあまりに小さな島である、対馬、壱岐島、隠伎島、佐渡ガ島などが大八州の一つの国と位置づけられていることです。淡路島は最初に創り上げた島ですから入っているのは当然として、考えられるのは、これらの島々が日本海を挟んで大陸との交通の重要な拠点であったことです。当時の古代国家がすでに、大陸に向いていたことの証とも言えるでしょう。それに対し、北海道はまだ未探検の地であり、南方の琉球(沖縄)も、屋久島や奄美諸島も大八州國の中に入っていません。少なくとも『古事記』以前の交流は無かったことが分かります。
さて、伊邪那岐と妻の伊邪那美神の二神は、更に数々の神々を生むのですが、火の神を産んだ時、伊邪那美は死んでしまうのです。亡き妻を恋て、伊邪那岐命は黄泉の国まで追っかけていきます。ところが伊邪那美は死者として蛆(ウジ)がわき、恐ろしい姿になっています。伊邪那岐命は慌てて逃げ帰り、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原まで来て、その穢れを禊ぎするのです。
その時、左目を洗いすすぎ産まれたのが天照大神(ママテラスオオミカミ)、右の目を洗いすすぎ月讀命(ツクヨミ)が産まれ、鼻を洗うと建速須佐之男命(素戔嗚尊スサノオ)が産まれました。つまり、これらの三神は、今までは夫婦男女二神が交合してできた神々とは違い、男神である伊邪那岐命がひとりで産んだことになっています。
この建速須佐之男命は母伊邪那美の死を悲しんで、山を枯らし、海を干すほど泣きわめいたとあります。そのため、「萬(ヨロズ)の禍(ワザワイ)が発(オ)き」、父伊邪那岐は怒って「この國に住むべからず」と、追放してしまうのです。
それなら姉の天照大神に挨拶してからと、建速須佐之男命は姉の住む所に向かうのですが、天照大神は建速須佐之男命が攻めてくると思い、武装(男装)して「何しに来た」と問います。すると建速須佐之男命は、「僕(ア)は邪(キタナキ)心無し」、「妣(ハハ)の國に行かむと思い吠(ナ)いた」と答えるのです。そこでふたりは、天の安の河で誓(ウケヒ)をし、子供を産みます。
伊邪那岐・伊邪那美夫婦ばかりでなく、兄と妹、姉と弟の、こうした交合(マグアヒ)で子を産む場面が何度も出てきますから、これが新井白石の「道徳的でないことが書かれているのは誤りで、記述が正しくない。」と言う発言になっているのです。それは、新井白石『古史通』と『或問』『読史余論』http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2008/02/post_9510.html に書きましたので、読んでおいてください。
さて、それで二人はうまくいくかに見えて、たくさんの神々を産みますが、そうなると建速須佐之男命は「我勝ちぬ」と自分の勝利宣言をします。天照大神の田を荒し、宮殿に糞を撒き、機織りを壊し、馬の皮を逆剥ぎするなど、散々に大暴れをするので、機織りたちが驚愕のあまり死んだりしました。天照大神も畏れをなし、岩戸に隠れてしまうのですが、すると高天原は一転暗くなり、八百万の神々がなんとか大御神を岩戸から出そうと集まってきます。そこで天宇受売命(アメノウズメ)が足を踏みならし、胸乳を出し、裳紐を陰部(ホト)に垂れと、神懸かりダンスを踊るわけなのですが、あまりの騒々しさに天照大神は「何事が起こっているのか?」と覗いたところを、鏡で照らし、天手力男神が岩戸をこじ開けます。
建速須佐之男命はこの後、髭を切られ、爪を剥がされ、追放されます。そこで出雲の国にたどりつくことになるのですが、そこから八俣の大蛇伝説や大国主命の出雲の国譲り神話になり、いよいよ天照大神の直系神である邇邇藝命(ニニギノミコト)[正式名:天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命]が地上に天降(クダ)ることになります。
ここから本題である、『古事記』の上での大バトル、新井白石の「漢意(カラゴコロ)」と本居宣長の「やまと心」の話しになります。
何故か、新井白石はこの邇邇藝命(ニニギノミコト)が天降った「高天原(タカマガハラ)」は「常陸の国(今の茨城)」と言い切っているのです。???
『古事記』の内容をかいつまんで話せば、伊邪那岐(イザナギ)と妻の伊邪那美(イザナミ)神の二人が、古代日本(大八州國オオヤシマクニ=淡路島、本州(大倭豊秋津島)、九州、四国、対馬、壱岐島、隠伎島、佐渡ガ島)を国産みしていきます。ここで注目するのは、本州・九州・四国と比べてあまりに小さな島である、対馬、壱岐島、隠伎島、佐渡ガ島などが大八州の一つの国と位置づけられていることです。淡路島は最初に創り上げた島ですから入っているのは当然として、考えられるのは、これらの島々が日本海を挟んで大陸との交通の重要な拠点であったことです。当時の古代国家がすでに、大陸に向いていたことの証とも言えるでしょう。それに対し、北海道はまだ未探検の地であり、南方の琉球(沖縄)も、屋久島や奄美諸島も大八州國の中に入っていません。少なくとも『古事記』以前の交流は無かったことが分かります。
さて、伊邪那岐と妻の伊邪那美神の二神は、更に数々の神々を生むのですが、火の神を産んだ時、伊邪那美は死んでしまうのです。亡き妻を恋て、伊邪那岐命は黄泉の国まで追っかけていきます。ところが伊邪那美は死者として蛆(ウジ)がわき、恐ろしい姿になっています。伊邪那岐命は慌てて逃げ帰り、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原まで来て、その穢れを禊ぎするのです。
その時、左目を洗いすすぎ産まれたのが天照大神(ママテラスオオミカミ)、右の目を洗いすすぎ月讀命(ツクヨミ)が産まれ、鼻を洗うと建速須佐之男命(素戔嗚尊スサノオ)が産まれました。つまり、これらの三神は、今までは夫婦男女二神が交合してできた神々とは違い、男神である伊邪那岐命がひとりで産んだことになっています。
この建速須佐之男命は母伊邪那美の死を悲しんで、山を枯らし、海を干すほど泣きわめいたとあります。そのため、「萬(ヨロズ)の禍(ワザワイ)が発(オ)き」、父伊邪那岐は怒って「この國に住むべからず」と、追放してしまうのです。
それなら姉の天照大神に挨拶してからと、建速須佐之男命は姉の住む所に向かうのですが、天照大神は建速須佐之男命が攻めてくると思い、武装(男装)して「何しに来た」と問います。すると建速須佐之男命は、「僕(ア)は邪(キタナキ)心無し」、「妣(ハハ)の國に行かむと思い吠(ナ)いた」と答えるのです。そこでふたりは、天の安の河で誓(ウケヒ)をし、子供を産みます。
伊邪那岐・伊邪那美夫婦ばかりでなく、兄と妹、姉と弟の、こうした交合(マグアヒ)で子を産む場面が何度も出てきますから、これが新井白石の「道徳的でないことが書かれているのは誤りで、記述が正しくない。」と言う発言になっているのです。それは、新井白石『古史通』と『或問』『読史余論』http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2008/02/post_9510.html に書きましたので、読んでおいてください。
さて、それで二人はうまくいくかに見えて、たくさんの神々を産みますが、そうなると建速須佐之男命は「我勝ちぬ」と自分の勝利宣言をします。天照大神の田を荒し、宮殿に糞を撒き、機織りを壊し、馬の皮を逆剥ぎするなど、散々に大暴れをするので、機織りたちが驚愕のあまり死んだりしました。天照大神も畏れをなし、岩戸に隠れてしまうのですが、すると高天原は一転暗くなり、八百万の神々がなんとか大御神を岩戸から出そうと集まってきます。そこで天宇受売命(アメノウズメ)が足を踏みならし、胸乳を出し、裳紐を陰部(ホト)に垂れと、神懸かりダンスを踊るわけなのですが、あまりの騒々しさに天照大神は「何事が起こっているのか?」と覗いたところを、鏡で照らし、天手力男神が岩戸をこじ開けます。
建速須佐之男命はこの後、髭を切られ、爪を剥がされ、追放されます。そこで出雲の国にたどりつくことになるのですが、そこから八俣の大蛇伝説や大国主命の出雲の国譲り神話になり、いよいよ天照大神の直系神である邇邇藝命(ニニギノミコト)[正式名:天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命]が地上に天降(クダ)ることになります。
ここから本題である、『古事記』の上での大バトル、新井白石の「漢意(カラゴコロ)」と本居宣長の「やまと心」の話しになります。
何故か、新井白石はこの邇邇藝命(ニニギノミコト)が天降った「高天原(タカマガハラ)」は「常陸の国(今の茨城)」と言い切っているのです。???
古代日本を考える時、当時の大和王権を中心として考えるならば、まだ関東平野の北は、未開の「蝦夷」と呼ばれた蛮夷の地であって、とても茨城に「高天原」があったとは考えられないのです。にも関わらず、何故新井白石は関東の北、茨城を「高天原」と設定したのでしょう?
『古事記』には、倭建命が父から命じられ「東の方十二道の荒ぶる神、また伏(マツロ)はぬ人等(ヒトドモ)を言向け和平(ヤハ)せ。」と、征伐を命じられたことが書いてあります。東国は大和王権に「伏(まつろ)はぬ人等」の地であったわけで、尾張(今の愛知県)より東を順番に征服していきます。相模(現在の神奈川県)で「蝦夷どもを言向け」とありますから、東国が今で言う関東よりもずっと西、静岡あたりからもう東国であったことが分かります。
『古事記』には、倭建命が父から命じられ「東の方十二道の荒ぶる神、また伏(マツロ)はぬ人等(ヒトドモ)を言向け和平(ヤハ)せ。」と、征伐を命じられたことが書いてあります。東国は大和王権に「伏(まつろ)はぬ人等」の地であったわけで、尾張(今の愛知県)より東を順番に征服していきます。相模(現在の神奈川県)で「蝦夷どもを言向け」とありますから、東国が今で言う関東よりもずっと西、静岡あたりからもう東国であったことが分かります。
あまりに長く遠征の旅にあったので、足柄山を越えたあたりで「吾妻(アがツマ)はや」と、妻を恋い思ったのですね。そこでこの地を「吾妻(アヅマ)」と呼ぶようになったと『古事記』には書かれています。この東国征伐で倭建命は歌を詠います。
新治(茨城のこと)、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる
ここで茨城の地名が出てきますが、これが東国遠征の最北なのです。つまり新治(茨城)、筑波以北は倭建命でも向かわなかった地であったということです。彼は、この後、更に科野(長野県)を廻り、長い長い旅を終え妻の待つ尾張に帰ってくるのですが、これが王権にまつろわぬ蝦夷征伐を目的とした、東国遠征の旅でした。
「高天原」が茨城であるという意見は聞いたこともありません。では何故新井白石は、「高天原」を常陸の国と断定したのでしょう?
『古事記』の記述をそのまま解釈するならば、邇邇藝命(ニニギノミコト)は、「筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき。」と書いてあります。筑紫ということは九州と考えるのが普通ではないでしょうか。その後神武天皇の代になって、王権は九州から東進し、八咫烏の導きで熊野に到着、古代国家としての大和王権が、現在の飛鳥の橿原あたりを基盤として築かれていったと考えるのが自然だと思うのですが、新井白石の考えはまったく違ったようなのです。
新治(茨城のこと)、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる
ここで茨城の地名が出てきますが、これが東国遠征の最北なのです。つまり新治(茨城)、筑波以北は倭建命でも向かわなかった地であったということです。彼は、この後、更に科野(長野県)を廻り、長い長い旅を終え妻の待つ尾張に帰ってくるのですが、これが王権にまつろわぬ蝦夷征伐を目的とした、東国遠征の旅でした。
「高天原」が茨城であるという意見は聞いたこともありません。では何故新井白石は、「高天原」を常陸の国と断定したのでしょう?
『古事記』の記述をそのまま解釈するならば、邇邇藝命(ニニギノミコト)は、「筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき。」と書いてあります。筑紫ということは九州と考えるのが普通ではないでしょうか。その後神武天皇の代になって、王権は九州から東進し、八咫烏の導きで熊野に到着、古代国家としての大和王権が、現在の飛鳥の橿原あたりを基盤として築かれていったと考えるのが自然だと思うのですが、新井白石の考えはまったく違ったようなのです。
彼はこのように書いています。
「常國というのは、すなわち常世の國のことである。古い時代には新治國、筑波國、茨城国國、仲國、久自國、高國などの地は、すべて常世の國といった。また日高見國とも言った。現在の常陸の国がそれである。この国は、日の神がお立ちになった土地であるから日立國といった。」
新井白石の解釈によれば、「高天原」の「高」は、高國=常陸國の多珂郡の地であり、「天」はアメが転じてアマになり、「海(アマ)」のことであり、常陸の国の海辺のほとりの地を言うということらしいのです。いやはや、なんとも、茨城に「日立」という地名があるだけで、古代日本の常陸國に「高天原」があったと断定して良いものでしょうか。
実は、新井白石の書いたものを読むほどに困惑するのです。みなさんもwebで「新井白石」を検索されると分かると思うのですが、新井白石を紹介したものには賛辞ばかりが多いのです。私の持っている中央公論の『新井白石』でも桑原武雄が解説していますが、「日本がもちえたもっとも偉大な百科全書的文化人」と大絶賛で、「高天原」が常陸にあったという説も、「万物は東からはじまる」と、あっさり、そのまま受け入れているのです。
福沢諭吉は数少ない新井白石批判をした人のようなのですが、桑原武雄は「国際的視野を持った人」だの、「歴史を総合的に把握した最初の歴史家」と褒めそやしています。これほどの賞賛ですから、かなりの期待を持って読み始めたのですが、「高天原」の一件にしても、新井白石の『古事記』の見方や、『或問』や『読史余論』に書かれた歴史観を知るにつれ、これは困ったことになった思うようになりました。私はまさか、偉大な学者であるはずの新井白石が、あのようなことを言っているとはつゆほども知らず、彼の書いた物を読めば、「なるほど!さすが!」と感心し、納得するものだと思っていたのです。
ところが、読めば読むほど「これは、どうしたものか?」と、困惑するばかりになってきました。
ちなみに常陸の国(茨城)は、彼が生まれ育った地であります。故郷は特別な地霊を持った神聖な所であって欲しかったのでしょうか。
けれど、新井白石を読んだことで、副次的な“おまけ”がついてきました。新井白石を読んだからこそ、鮮明に見えてきたものがあったのです。それは本居宣長が「漢意(カラゴコロ)を排除し、「古(いにし)えのまことの意(こころ)」を知るには、何よりもまず「古言」を知らなければならない」と言った言葉の、意味でした。
「常國というのは、すなわち常世の國のことである。古い時代には新治國、筑波國、茨城国國、仲國、久自國、高國などの地は、すべて常世の國といった。また日高見國とも言った。現在の常陸の国がそれである。この国は、日の神がお立ちになった土地であるから日立國といった。」
新井白石の解釈によれば、「高天原」の「高」は、高國=常陸國の多珂郡の地であり、「天」はアメが転じてアマになり、「海(アマ)」のことであり、常陸の国の海辺のほとりの地を言うということらしいのです。いやはや、なんとも、茨城に「日立」という地名があるだけで、古代日本の常陸國に「高天原」があったと断定して良いものでしょうか。
実は、新井白石の書いたものを読むほどに困惑するのです。みなさんもwebで「新井白石」を検索されると分かると思うのですが、新井白石を紹介したものには賛辞ばかりが多いのです。私の持っている中央公論の『新井白石』でも桑原武雄が解説していますが、「日本がもちえたもっとも偉大な百科全書的文化人」と大絶賛で、「高天原」が常陸にあったという説も、「万物は東からはじまる」と、あっさり、そのまま受け入れているのです。
福沢諭吉は数少ない新井白石批判をした人のようなのですが、桑原武雄は「国際的視野を持った人」だの、「歴史を総合的に把握した最初の歴史家」と褒めそやしています。これほどの賞賛ですから、かなりの期待を持って読み始めたのですが、「高天原」の一件にしても、新井白石の『古事記』の見方や、『或問』や『読史余論』に書かれた歴史観を知るにつれ、これは困ったことになった思うようになりました。私はまさか、偉大な学者であるはずの新井白石が、あのようなことを言っているとはつゆほども知らず、彼の書いた物を読めば、「なるほど!さすが!」と感心し、納得するものだと思っていたのです。
ところが、読めば読むほど「これは、どうしたものか?」と、困惑するばかりになってきました。
ちなみに常陸の国(茨城)は、彼が生まれ育った地であります。故郷は特別な地霊を持った神聖な所であって欲しかったのでしょうか。
けれど、新井白石を読んだことで、副次的な“おまけ”がついてきました。新井白石を読んだからこそ、鮮明に見えてきたものがあったのです。それは本居宣長が「漢意(カラゴコロ)を排除し、「古(いにし)えのまことの意(こころ)」を知るには、何よりもまず「古言」を知らなければならない」と言った言葉の、意味でした。
宣長の『宇比山踏(ういやまぶみ)』は、新井白石の『古史通』に、疑問を問い返したかたちになっていたのだ、と気づいのです。本居宣長が執拗に儒学者への批判を繰り返していたのは、実は、新井白石批判であったということです。新井白石の『古史通』に反意を述べるために、本居宣長は三十五年という歳月をかけ『古事記』の研究に没頭したのでした。
「そうか、そうだったのか、」
本居宣長は、新井白石が書いた『古史通』の古事記解釈に、とうてい納得できなかったのでしょう。今は本居宣長の、その矜持がよく分かります。
実は、以前【本居宣長『宇比山踏(ういやまぶみ)』http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/post_0af1.html 】をこのブログで書いた時、宣長が「よその国の学問より、まず自国の学問を。儒意をまぜると、解釈を誤る。」と言っているのを、深い意味で捉えてはいませんでした。『宇比山踏』 には「儒のこころをきれいさっぱり洗い去って、“やまとたましい”を堅固にすることが肝要。」と書いてあります。
本居宣長が言う、「古(いにし)えのまことの意(こころ)を知るには、何よりもまず「古言」を知らなければならないという言葉は、新井白石その人の言葉でもありました。ですが、その解釈が「高天原」が「茨城」であるというような、あまり無茶な独断的な見解で、宣長には許し難かったのでしょう。
「そうか、そうだったのか、」
本居宣長は、新井白石が書いた『古史通』の古事記解釈に、とうてい納得できなかったのでしょう。今は本居宣長の、その矜持がよく分かります。
実は、以前【本居宣長『宇比山踏(ういやまぶみ)』http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/post_0af1.html 】をこのブログで書いた時、宣長が「よその国の学問より、まず自国の学問を。儒意をまぜると、解釈を誤る。」と言っているのを、深い意味で捉えてはいませんでした。『宇比山踏』 には「儒のこころをきれいさっぱり洗い去って、“やまとたましい”を堅固にすることが肝要。」と書いてあります。
本居宣長が言う、「古(いにし)えのまことの意(こころ)を知るには、何よりもまず「古言」を知らなければならないという言葉は、新井白石その人の言葉でもありました。ですが、その解釈が「高天原」が「茨城」であるというような、あまり無茶な独断的な見解で、宣長には許し難かったのでしょう。
江戸時代の学問というと、それは「漢学」を言いました。その時代に、契沖、賀茂真淵、本居宣長と続く「国学」が誕生した経緯には、幕府御用学者であった新井白石始めとする儒学者たちが闊歩した学問の形態に、疑問をいだいたことにもあったのでしょう。
とはいえ、自分の思いこみだけで語るならば、それは新井白石と同じになってしまいます。何よりもまず「古言」を知るには『万葉集』を読み解き、その「やまとことば」で『古事記』を読み解いていかなければならない。そう宣長は決心したのです。
宣長に言わせれば、「言(ことば)」と「事(わざ)」と「心(こころ)」、その真(まこと)を知ることが、日本という「世のありさまを正しく知る」ことだったのです。
『古事記』には神々の表記として、「邇邇藝命」や「天照大御神」のように「命」と表記されるものと、「神」と表記されているものとがあります。『古事記』では、「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」と表記されていた二神が、「天つ神」の命(ミコト)を受け、国産みをした後、「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」と、「神」から「命」と表記が変わります。
新井白石は『古事記』に書かれた「神」も「命」も、「上古のならわしでは、人を尊んでみなこれを『美許登(ミコト)』とほめたたえた」と書きました。
これに対し、宣長は「命(ミコト)は御言(ミコト)なり」と、考察します。しかし、「高天原を知らせ」という父伊邪那岐の命を受けた天照大神は「大神」と「神」の上に更に「大」がつき、そのままなのです。
同じ伊邪那岐から産まれた三人の子供でありながら、「月読命」と「建速須佐之男命」の二人の呼称は「命」ですが、天照大神のみが特別扱いです。これは、高天原を支配する「神」はアマテラス大御神だけであり、それ以外は“生身の人間”として扱われているので「命(ミコト)」になったのではないかと、私などは考えるのですが、本居宣長は迂闊なことは言わず、「美許登(ミコト)てふ言の意は、いまだ思い得ず」と書いています。
分からないことは語らない、という潔さを感じますが、新井白石の解釈への疑問は疑問のまま残しておいたと言うべきかもしれません。これは後の世になって津田左右吉や折口信夫なども同じように「命」についての考察をしています。
白石が「高天原」を常陸の国と勝手に決めたことに対し、宣長は「天」と「地=この世」と「あの世=根の国(黄泉の国)」と、構造的に三段階にした天地図を描いています。彼の世界観は天照大御神を頂点にした神国日本でした。彼の世界観の中に外国はなかったのです。
新井白石は、そういった意味では国際人だったかもしれません。彼の世界には、中国はもとよりオランダや、日本の外にある諸外国も見えていました。それに比べると、宣長の考えは違います。あくまでも日本を中心にして、日本の事情だけを考えます。
宣長に言わせれば、「言(ことば)」と「事(わざ)」と「心(こころ)」、その真(まこと)を知ることが、日本という「世のありさまを正しく知る」ことだったのです。
『古事記』には神々の表記として、「邇邇藝命」や「天照大御神」のように「命」と表記されるものと、「神」と表記されているものとがあります。『古事記』では、「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」と表記されていた二神が、「天つ神」の命(ミコト)を受け、国産みをした後、「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」と、「神」から「命」と表記が変わります。
新井白石は『古事記』に書かれた「神」も「命」も、「上古のならわしでは、人を尊んでみなこれを『美許登(ミコト)』とほめたたえた」と書きました。
これに対し、宣長は「命(ミコト)は御言(ミコト)なり」と、考察します。しかし、「高天原を知らせ」という父伊邪那岐の命を受けた天照大神は「大神」と「神」の上に更に「大」がつき、そのままなのです。
同じ伊邪那岐から産まれた三人の子供でありながら、「月読命」と「建速須佐之男命」の二人の呼称は「命」ですが、天照大神のみが特別扱いです。これは、高天原を支配する「神」はアマテラス大御神だけであり、それ以外は“生身の人間”として扱われているので「命(ミコト)」になったのではないかと、私などは考えるのですが、本居宣長は迂闊なことは言わず、「美許登(ミコト)てふ言の意は、いまだ思い得ず」と書いています。
分からないことは語らない、という潔さを感じますが、新井白石の解釈への疑問は疑問のまま残しておいたと言うべきかもしれません。これは後の世になって津田左右吉や折口信夫なども同じように「命」についての考察をしています。
白石が「高天原」を常陸の国と勝手に決めたことに対し、宣長は「天」と「地=この世」と「あの世=根の国(黄泉の国)」と、構造的に三段階にした天地図を描いています。彼の世界観は天照大御神を頂点にした神国日本でした。彼の世界観の中に外国はなかったのです。
新井白石は、そういった意味では国際人だったかもしれません。彼の世界には、中国はもとよりオランダや、日本の外にある諸外国も見えていました。それに比べると、宣長の考えは違います。あくまでも日本を中心にして、日本の事情だけを考えます。
それは後に【本居宣長vs上田秋成】の論争 http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/vs_22f5.html にもなっていくのですが、上田秋成は、宣長にこう言うのです。
世界は広く、そこでは天照大神ではない別の神が信じられている。「外国は天照大御神の生まれませる御国にあらず。」と。
地球上には多くの国や民族があって、「太陽」や「月」が、我が国で生まれたなど、世界中のだれが信じるだろうか、というのが上田秋成の近代的な考えでしたが、さて、それに対し宣長はどう返事したのでしょうか?
彼は答えて曰く、日神である天照大神がこの国で産まれたのだからこそ、我が国は「神国」であるのだ。このように宣長は主張するのです。これが、その後太平洋戦争時にまで続く、日本の強い「神道思想」の元となっていきます。
「日本魂(ヤマトダマシヒ)と云うも、偏るときは、漢籍意(カラブミゴコロ)にひとし。」
これが上田秋成の痛烈な宣長批判でした。新井白石の偏りを批判した本居宣長の言葉でもって、秋成は宣長を批判したのです。
世界は広く、そこでは天照大神ではない別の神が信じられている。「外国は天照大御神の生まれませる御国にあらず。」と。
地球上には多くの国や民族があって、「太陽」や「月」が、我が国で生まれたなど、世界中のだれが信じるだろうか、というのが上田秋成の近代的な考えでしたが、さて、それに対し宣長はどう返事したのでしょうか?
彼は答えて曰く、日神である天照大神がこの国で産まれたのだからこそ、我が国は「神国」であるのだ。このように宣長は主張するのです。これが、その後太平洋戦争時にまで続く、日本の強い「神道思想」の元となっていきます。
「日本魂(ヤマトダマシヒ)と云うも、偏るときは、漢籍意(カラブミゴコロ)にひとし。」
これが上田秋成の痛烈な宣長批判でした。新井白石の偏りを批判した本居宣長の言葉でもって、秋成は宣長を批判したのです。
純粋に学問として『古事記』にあたり、神代を知って、古(いにし)へのまことの意(こころ)を知るという宣長の研修が間違っていたとは思いません。
この後やがて日本には、大八州国(オオヤシマクニ)の外海に、黒船が到来し、「世界」が牙をむけて待ちかまえている時代がやって来ます。更に、アメノタシラシメス皇国日本が大揺れに揺れ、天照大御神の日継皇子(ヒツギノミコ)である現人神(アラヒトガミ)である天皇が、昭和になって「人間宣言」をするなど、誰もが予想もしない事態が起こるのです。けれど、宣長は、そうしたこととの埒外、まったく知らない時代に生きていたのですからね。
この後やがて日本には、大八州国(オオヤシマクニ)の外海に、黒船が到来し、「世界」が牙をむけて待ちかまえている時代がやって来ます。更に、アメノタシラシメス皇国日本が大揺れに揺れ、天照大御神の日継皇子(ヒツギノミコ)である現人神(アラヒトガミ)である天皇が、昭和になって「人間宣言」をするなど、誰もが予想もしない事態が起こるのです。けれど、宣長は、そうしたこととの埒外、まったく知らない時代に生きていたのですからね。
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