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2008年6月16日 (月)

『明治維新の舞台裏』石井孝 岩波新書

 Photo_2         NHK大河ドラマ『篤姫』で登場する瑛太演じる肝属尚五郎、後の小松帯刀(たてわき)1835~1870、この若き薩摩藩家老が一体どんな人物なのか、また彼が具体的にどのようなことをし、当時の薩摩藩はどのような状態にあったのか調べるつもりで本書を読んでみました。

  まずは、およその関係図です。
………………………………………………………………
幕府
勢力復権側 vs 雄藩連合組(攘夷 開国 尊皇派)
………………………………………………………………
          
一橋慶喜vs島津久光(薩摩藩) (長州藩)桂小五郎
             【薩長同盟】    高杉・井上  
            小松帯刀・大久保・西郷   
             (挙兵倒幕も辞さず) 
 
       横井小楠 
小栗忠順vs勝海舟     
       ↓           (グラバーが暗躍)   
       坂本龍馬     
       (亀山社中)―→薩摩の名義で長州の武器を調達
……………………………………………………………………
徳川堅持派 vs 倒幕連合側                   
フランス公使  イギリス公使        
ロッシュ     オールコック
…↓……………↓………………………………………………
(幕府を    (自由貿易が目的・内乱を回避させたい)
バックアップ) (旧体制には見切りを付け、大名会議提案)
 ∥         |
 ∥         |小松帯刀面談(幕府が真の日本国
 ∥         ↓ /   代表ではないことを力説)
栗本鯤   後任パークス(天皇擁立が正しい在り方と考え
製鉄所建設   るも、中立の立場。国政に関与しない。)
         
老中:水野忠精パークスと会見
→内紛を嫌うパークスが長州藩の寛大な処置を提案 
  しかし水野は長州征伐強攻策を崩さない。   

慶喜は策略を弄し
島津に先手を打つ。

ロッシュは徳川絶対制維持のための
近代国家造りを慶喜に提案。    
封建制の改革を指南。         
 ∥
官僚制の確立
廃藩・士族解体
陸海軍の整備

ところが外相が代わりフランス政府は
徳川政権もいずれ天皇制へ移行すると見て→対英協調路線へ
と変更。しかし、ロッシュはそれでも幕府側に立って応援する。
幕府はフランスへ借款と
援助要請
 ∥
栗本鯤
幕府の正当性を訴える→【パリ万博】←幕府の非正当性を訴える
                        薩摩藩

幕府薩摩藩邸の焼き討ち→←薩摩藩の応戦(鳥羽・伏見の戦い)
             ↓
江戸へ逃げ帰る←―慶喜:大阪城脱出
 ↓
 |              パークス協力体制に
 |               ∥
 |              天皇と対談 
 ↓               ∥
大政奉還          王政復古(明治新政府) 
 ↓           
江戸開城
 ↓                          
慶喜:駿府へ

………………………………………………………………………


 ここには二つの対立勢力があります。ひとつは幕府の一橋慶喜を中心とする旧体制での勢力温存派と攘夷開国を求め徳川も一つの大名代表とし、雄藩で連合し国事を司っていくという横井小楠の思想を受け継ぐ勝海舟、島津久光らの攘夷派、開国を求める長州の動きと、実はその裏で両
者をあやつる大国、フランスとイギリスの利権をめぐるかけひきです。

 フランス公使ロッシュは政府に造反する各藩の在り方が徳川幕府の旧体制にあると考え、それを改革せずして幕府の強化もあり得ないと考えていたのでしょう。フランス革命によってフランス国民は君主制の封建社会から脱却し近代国家へと変貌を遂げていました。その経験を新しい徳川政権の手本とさせたのです。彼は新たな官僚制度の確立、陸海軍の整備など、薩摩や長州のような反幕府勢力に対抗する政府造りを推進します。また軍事目的とした道路整備など、国のインフラ整備にまで指南しているのには驚かされます。

 注目するのはフランス公使ロッシュが物心両面で幕府側に肩入れするのに対し、イギリス公使オールコック、後任パークスは幕府の旧体制に見切りをつけ攘夷派・開国論派に与(くみ)し、陰で情報操作を企てるものの、表向きはあくまでも中立、国政に関与しない姿勢をとり続けたことでしょうか。イギリスは日本の内乱が長引き、自由貿易の足場が崩れることを危惧したこともあるかもしれませんが、日本を交易相手とみなしていただけで、本来の目的が自由貿易にあり、内紛を避けたい気持ちが強かったのでしょう。

 幕府にとって不運だったのは、経済的・政治的にも常に慶喜の後ろ盾となっていたロッシュが本国の政策変換により徳川側に寄るのではなく、イギリスと対立することなく対英協調路線を取るよう指示されたことと同時に、中立を装っていたイギリスが、天皇擁立の機運と共に天皇に接近、政権に関わり牛耳じっていくことになったことでしょうか。
 明治維新は旧幕府と薩長同盟の権力奪取の戦いであったばかりではなく、利権に絡んだ大国の思惑が深く介入していた事変でもあったのですね。

 そんな中、小松帯刀が中心となった薩摩藩は実は最も過激な急進派で、武力でもって倒幕も辞さない考えを持っていました。まさに内乱から革命をめざしていたのです。
 小松帯刀の活躍はめざましく、薩長連合に先立ち長州藩との話し合いや武器調達の援助まで、坂本龍馬を藩邸に匿ったのも、寺田屋襲撃の後の傷ついた竜馬を温泉治療に招いたのも帯刀だったのです。
 ところが、明治維新を動かした男として、勝海舟の名前や坂本龍馬、桂小五郎、高杉晋作、西郷や大久保、そうした名前は数々小説にもなって多く知られてきましたが、小松帯刀の名は世間であまり知られていませんでした。
 殺された竜馬や西南戦争で負けた西郷さんは国民的アイドル、今でも人気者です。また桂小五郎、大久保利通など明治新政府になってみな活躍しているのに、どうしたことか小松帯刀の名は歴史の教科書にもでてきません。
 これほどの人物、明治維新の立て役者でありながら、何故そのような扱いを受けているのか? 何故歴史の表舞台に名前が登場しないのか? 実は明治新政府になって二年後の1870年、彼は35才の若さで亡くなっているのですね。
 志半ば、新政府に関わる手前で亡くなってしまい、だからそれで明治政府の要人に彼の名前は無いのでした。明治新政府の成立を見届けたことはせめてもの慰めでしょうか。
 20代ですでに藩の家老職に、しかもテレビドラマに出てくるように、下々の者と分け隔てなくつきあいをした人物であったようです。

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2008年6月26日 (木)

幕府側から見た幕末 『先見力と胆識』

 『明治維新の舞台裏』(石井孝)が薩長連合(明治新政府)側から書いてあったのに対し、本書新井喜美夫氏はまったく反対の幕府側から書いています。「幕末日本を救った逆風の中の名リーダー」とも書いてありまして、取り上げられているのは井伊直弼、小栗忠順、徳川慶喜、河井継之助、勝海舟の五人です。
 ものの見方というのは、どちら側から書くかで天と地ほど差がでてきます。本書は幕府老中側に立って書いてある本なので、井伊直弼が開国を主張する国際通として描かれています。NHK大河ドラマ『篤姫』では島津斉彬ら薩摩藩こそ‘先見の明'ある人たちとして描かれていますが、ここでは薩摩藩の動きは幕臣にあって倒幕運動をする許しがたい輩として書かれています。また公武合体後、自身の保身を考えた一橋慶喜や、幕府側にありながら薩摩側にもつくような勝海舟を批判し、対する小栗忠順はこれ以上ないというくらい高く評価しています。

 では、まず舞台となった幕末の時代的背景や状況を考えておきましょう。そもそもの発端は太平の世を揺るがしたペリー来航がありました。ここで何より一番問題になったのは、外国からすれば、条約を結ぶにつけても調印すべく日本国の代表は誰か? ということです。征夷大将軍として全国統治していたとしても「徳川将軍」が日本の国王ではない。「天皇」がいる。彼こそが条約にサインすべき日本の代表なのではないか? 「王政復古思想」はそのような事情を背景に生まれてきました。諸外国と条約を結ばなければならなくなった時、「天皇」の存在がクローズアップされてきたのです。人々は初めて徳川の天下も天皇から仮託された政権にすぎなかったことに気づいたわけです。

 日本は「神国」としてただ一度たりとも「天皇」の代が途絶えたことはありません。神話時代より万世一系として続いてきたことになっています。各時代の政権は天皇の承認、勅命によって任命されているにすぎず、徳川家康も「征夷大将軍」を拝命して江戸に幕府を開いたわけです。
 「天皇家」を倒すということは、自らを御神体として崇めよと言ったあの信長ですらしていないのです。「天皇」というのは日本の歴史において絶対の聖域で犯さざるものでした。
 なので「王政復古」の機運が浮上してきて京都がにわかに騒がしくなっても、徳川幕府としてはそれに対しまっこう勝負し朝敵になるわけにもいかない。新撰組も「京都警護」が名目であって治安維持のため置かれたことになっています。
 
 とはいえ、幕府側とておいそれと全権を手放すわけにはいきません。「天皇」側の勢力が強まるに連れ徳川慶喜らが構想したのは、「天皇」を頂点に戴くとしても、それは摂関政治時代と同じで、今まで通り実際の政治を執り行うのは幕府とする「公武合体」の体制でした。
 本書では勝海舟を幕府にも尊皇派にも与する日和見主義者として断罪していますが、諸外国にあたるに際しても、幕府だ天皇だと内部で分裂していては始まらない、それではかえって侵略の好機をねらっている外国の思う壺であり、「幕府派vs天皇派」という対立をなくし、「統一日本(天皇+幕府)vs諸外国」といった日本国内一致団結して事にあたるべきだというのが勝海舟や坂本龍馬が模索した理想的な日本国の姿でした。天皇と幕府の公武合体政府を最後の最後まで徳川幕府は模索していたのです。
 だからこそ「明治維新」はフランス革命のように民衆の力で王権を倒す「革命」ではなく、政権の移譲があったのみの「維新(Restoration)」と呼ばれているのですね。

  ペリーが浦賀に来た頃は、条約を結ぶどころか来る者すべて外国船など討ってしまえという「攘夷論」が多数ありました。ところが老中阿部正弘はペリーの親書を受理してしまう。対して「四賢侯」と言われた「雄藩連合」、伊達宗成(宇和島藩)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐藩)、島津斉彬(薩摩藩守)らは俄然それに反対、水戸の斉昭がそこに加わります。
 ところが老中井伊直弼はペリーが再来日し、強引に脅しをかけると簡単に親和条約を結んでしまう。政策の不一致で幕府内は分裂、直弼と水戸斉昭の戦いが始まります。
 
 歴史に「もし」はありません。諸外国が開国を迫るあの状況の中では、幕府とて否が応にも開国せざるを得なかったのでしょうし、果たして「攘夷」と言って当時の日本の国力で外国を撃ち破ることができたのかは大いに疑問です。阿部老中や井伊直弼が考えたように、それはとうてい無理だったでしょうから、大砲をバンバン撃ち込まれて遅かれ早かれ開国し、相手が求める条約を提携せざるを得なかったに違いないのです。
 なので、本書の作者が井伊直弼の肩を持つのも分かります。が、「尊皇派」「倒幕派」に対し、「幕府側」が正しいのかと言えば、それは単に立場の問題であって、見方が変われば世界の見え方も変わるという典型例と言えるでしょう。

  『明治維新の舞台裏』と『先見力と胆識』の二冊を並列して読むことで、その対立の構造もより鮮明に浮かび上がってきます。
 

 まずは、その対立の構図です。
――――――――――――――――――――――――
井伊直弼  vs  水戸斉昭
         一橋慶喜
         「雄藩連合」
           ├→伊達宗成(宇和島藩)
           ├→松平春嶽(越前守)
           ├→山内容堂(土佐藩)
           └→島津斉彬(薩摩藩守)
     ←(建白書提出)
(直弼は斉昭ら処分)→ 
            
            一橋慶喜擁立運動と
            井伊直弼解任運動
                  ↓
          これらがやがて「尊皇・倒幕」
          という動きになっていく。

【安政の大獄】
幕府は反対分子を次ぎ次ぎ
逮捕(吉田松陰ら処刑)

――――――――――――――――――――――――
           薩英戦争が反対に薩摩と
           イギリスを接近させる

イギリスに対抗する    ↓
ため幕府を後押しする  大名連合を支持する
フランス  vs     イギリス
――――――――――――――――――――――――

小栗忠順 政府視察団    勝海舟 咸臨丸船出

(渡米中に【桜田門外の変】井伊直弼は暗殺される)

小栗忠順   vs   勝海舟
(陸軍)      (海軍操練所)→坂本龍馬
 ↓
各藩を統制するため
群県制度を構想する
 ↓
これが後に廃藩置県に。

小栗の解任  ←勝

      【蛤御門の変】→勝失脚 長州敗北

小栗返り咲く
製鉄所の建設

小栗「コンパニー」
政府主導の株式会社設立構想


 ↓      
江戸無血開城
後に斬首  
 
  
――――――――――――――――――――――――


 1853年ペリーが来航するや、開国が攘夷かで井伊直弼と水戸斉昭が対立します。
 水戸は代々将軍のご意見番でした。『篤姫』のテーマにもなっている将軍家定に世継ぎが無く、本来であれば「尾張」か「紀州」から殿様を選ぶはずでしたが、実は八代将軍「吉宗」を選ぶ際、「尾張」「紀州」での壮絶な跡目争いが尾を引き、八代以降「一橋」「清水」「田安」の御三卿が新に跡目候補の家として設けられました。
 では、何故その跡目候補には入っていない水戸の斉昭がここで暗躍するのか?  諸葛亮が劉備に説いた戦略に「天下三分の計(てんかさんぶんのけい)」というものがあります。力を三つに分散しておいて、全部が叩かれないように、不足の事態が起こっても一つは残っていくように計らうことです。 
 家康は先見の明がある人で、万が一徳川の時代が終わっても「尾張」「紀州」「水戸」の三家の内「水戸」のみは残るように、天下に一大事が起こった時でも「水戸」は「天皇家」側に就くよう言い残して死んだのですね。だからこそ水戸のみは将軍職に就かず、それを頑なに守ってきたのです。
  なので、本来ならば水戸家の徳川慶喜が将軍職に就くことはあり得ないことだったはずです。ところが家康から十三代も下ると、その教えの本来的な意図も忘れ去られていたのかもしれません。井伊直弼が幕府内を牛耳り、思うに任せぬことにイラついたのかもしれません。斉昭は我が息子を将軍職にという野望を抱いたのでしょう。しかし水戸出身のままではまずい。将軍職につくためには一橋家に養子に出し、一橋慶喜と名乗らせます。
  「水戸」は家康の命を受け、もともとが国学を中心とした神道思想を絶やさず持ってきましたから、斉昭もそのまま「神国日本」と考える国学思想の持ち主でした。「大和魂」を持ってすれば夷敵など怖るるに足らずという考えだったのです。
 しかしアヘン戦争に見るまでもなく、列強が日本に開国を迫り、それを拒むと言うことは開戦を辞さないということであり、斉昭の言う精神論のみでやっていける問題ではないのです。井伊直弼は現実派だったと言ってもいいでしょう。

  「水戸」の系譜ということで言えば、尊皇派も当然一橋慶喜の登場を願っていたのです。井伊直弼はそれも苦々しく思っていたのではないでしょうか。家康の命を守るのであれば当然「尾張」か「紀州」から将軍を選ぶべきで、一橋を名乗っていようと慶喜は「水戸」の御曹司であることに変わりなく、我が息子可愛さ余りか「水戸」から将軍を出そうなんて考える斉昭を、井伊直弼が許し難く思ったとしても当然と言えばあまりに当然のことだったと言えるでしょう。
 世継ぎ問題は「紀州」から家茂を将軍とすればよいことで、「水戸」の斉昭が息子を擁立するのを苦々しく思っていたはずです。

 『篤姫』の夫である家定は早々と次の将軍に「紀州」の家茂を指名します。ところがこの後怪奇な事件が起こります。家定が御典医の薬の調合によって具合が悪くなったのです。薬物が盛られたのです。井伊直弼は斉昭や雄藩連合の連中を処分しますが、このことが更に直弼への反発を増長させたとも言えるでしょう。
 井伊直弼は幕府に対する反対分子の大量逮捕と処罰を行います。吉田松陰が逮捕され処刑された「安政の大獄」です。そうしてみると、実は城中での対立だけではなく、それだけ幕府のやり方に不満を持っていた下級武士たちも多かったとも言えるでしょう。
  薬物が盛られた後、体を悪くした家定は亡くなり、次ぎに擁立した紀州の家茂も21歳という若さですぐ亡くなってしまいます。さらに直弼までが「桜田門外の変」で暗殺され、これで一橋慶喜が将軍になるのを阻害していた敵陣はことごとく消えていきます。
 偶然とは思えません。この一連の流れは繋がっているのでしょう。天下晴れて一橋慶喜は十五代将軍に就きます。

 徳川慶喜にとって「大政奉還」というのは「水戸」に生まれた者としても自然に持っていた思想であると思われます。それが家康が定めた「水戸」の使命でもあったはずだからです。しかしそれは公武合体後も徳川が同じ政権に就くという考えのものでした。ところが予想だにしない「倒幕」という思想が幕臣たちからも生まれます。「雄藩連合」のように勝手に幕府の意向に反対を述べるものから長州藩のように全面尊皇・倒幕思想を打ち出す藩まで、幕府は統制が効かない各藩の行いに業を煮やすのです。
 「廃藩置県」の思想はここから生まれます。幕府をもっと中央集権化して近代政治へと脱却させねばならない。そのためには各藩の旧体制が弊害になる。各藩を統制するため小栗忠順は「群県制度」を構想するのです。徳川幕府を新しい組織として立て直すことに尽力したのがこの小栗忠順と言えるでしょう。 
 ところが慶喜や勝海舟の考える新しい政府とは、幕府を近代化し尊皇派と闘っていくことではありませんでした。公武合体した新政府を構想したがゆえ、とことん幕府の体制を維持しようとした小栗忠順は失脚させられ最後は斬首という扱いを受けています。
 
 しかし結果はどうなったのでしょう。大政奉還して慶喜はなおも政権の座につこうとしましたが、いくら慶喜が天皇を中心とした公武合体の新政府構想を持ったところで、最初から岩倉具視を始め倒幕運動をしてきた薩摩藩や長州藩の面々たちは徳川政権と一緒に新体制を築こうなどという考えは無かったのです。
 「鳥羽伏見の戦い」によって“錦の御旗”を持った官軍を迎え撃つことになってしまった幕府側の会津・桑名藩は賊軍となり、突如“敵対勢力”とされてしまうのです。慶喜は朝敵にあらずと恭順の姿勢を示しますが、討幕派の勢いは止められなくなっていたのです。慶喜は江戸開城を迫られ、助命嘆願だけは叶い、駿府へ蟄居します。
  これが明治維新のあらましです。一斉に文明開化、それまでの日本の文化・風俗は一掃され、人々は髪を切り、洋装をし、近代化への道を歩み始めるのですが、その裏では「神仏分離令」が出され、仏教排撃運動が起こります。日本は村々にそれぞれの檀家寺があり、そこで葬祭が行われていました。ところが日本国の正しい宗教は「神道」ということになり、いきなり廃仏毀釈の波が押し寄せるのです。
 まるで中国共産党が「共産化」を進めるにあたり紅衛兵たちが古い文化を“ブルジョア的”だと非難し大粛清を行ったのに似ています。寺や仏像が一斉に破壊され、僧侶は還俗、つまり僧侶をやめることを強制されたのです。
 
 また、小栗忠順が各藩の勢力を弱体化させるために考えた「群県制度」は「廃藩置県」として、旧幕藩を廃止、新しく県を置くこととなりました。そのための悲劇は日本全国で起こったのですが、それについては、またいずれ書いていきたいと思います。

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2008年6月30日 (月)

『物語 廃藩置県』高野澄

Photo  そもそも「廃藩置県」について考えたことなどありませんでした。社会科の教科書に出てきたくらいで、明治になって幕府が無くなったのですから、当然「藩」というものが廃止され新しく「県」になったくらいに思っていたからです。ところが『先見力と胆識』(新井喜美夫著)にあったように、それは徳川幕府であったときから考えられていた「群県制度」構想が基になっていること、しかもそれは幕末の徳川政権にとって薩摩や長州など統制の効かない藩を無くし、幕府が旧体制を改革し新たな中央集権国家をめざすためであったのです。
 しかし徳川政権の間はそれが実行されることはありませんでした。小栗忠順は幕府内では勝海舟ら公武合体派とは対立する立場にあり、それが受け入れられることはなかったからなのでしょう。ところがその案は新政府になって採用されるのです。

 本書は「物語」となっていますが、小説ではありません。廃藩置県が新政府の元、全国でどのように行われたか“物語って”いる本なのです。

  新政府が行った蛮行の最たるものは「廃仏毀釈」だったでしょう。日本はもともと八百よろずの神々と同居してきた国でした。神様も拝むけど仏様も拝む。けれど明治新政府は「神仏分離令」を出し、それによって仏教排撃の気運が激化し、多くの仏像が破壊されたりしました。それと同じようにこの「廃藩置県」も有無を言わさず断行されます。この時実は多くの城も新政府に恭順の姿勢を示す証として破壊されています。
 

 弾圧されたのは「仏教」だけではありませんでした。「儒教」もまた外国思想であり、「キリスト教」も同じく弾圧の対象でもあったのです。キリシタンは拷問しても改心させるとか、掟通りに死刑に処すとか、津和野藩では長崎で逮捕された153人が送り込まれ幽閉させられました。「神道」を唯一国家宗教とするイデオロギーが日本国中かけめぐっていたのです。
 ところが寺や仏像が破壊されたり、僧が俗還させられたりするのとは裏腹に、逮捕されたキリシタンたちは無害だろうということで解放されます。これは妙ですよね。日本を「神国」とするならば、「God」という「神」を天界に置く異国の宗教を容認していいはずはありません。しかし「キリスト教徒」は放免されたのです。 
 本書にはありませんが、この背景には当時の日本の近代思想が、西洋文明と、思想としてのプロテスタンティズムの影響を大きく受けていたことと関係しているのでしょう。
 【『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ウェー
バー】http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2005/06/post_d99a.html を読んでください。
  宗教としての「キリスト教」は排斥するが、思想・文化としての「キリスト教精神」は見習うべきだという考えが明治新政府にあったのではないでしょうか。

  さて、「大政奉還」した後、「廃藩置県」の前に自ら版籍奉還した藩も多くありました。中には財政上維持できなくなったというのもあります。多くの藩は藩独自に藩札など発行していました。多大な借財をそれで賄っていた藩も多いのです。ところが廃藩になるということは、それらが紙屑同然になるということでもあり、とんでもない事態が起こります。
 中には藩財政逼迫のため率先して偽札を偽造する藩もあり、福岡県ではそれが問題になって知事となっていた元福岡藩主が罷免させられるという事態が起こります。

 そもそも藩主は版籍奉還しても「県」と名が代わるだけで相変わらず世襲で県知事を歴任すると考えていました。ところが政府の考えは、あくまで任命権は政府にあり、国替え、藩の分断・統合とめまぐるしくその管轄区域も変えさせられていくのです。
 戊辰戦争で幕府側についた藩は分裂されられたり、他の藩と統合されていくのならまだ分かるのですが、新体制に与し倒幕側で戦った藩が優遇されるということではありませんでした。何しろ今まであった藩が分割されたり、統合されたりするのですから以前のままの体制が維持できるというものではなく、それまでの藩の禄高を半減させられたり、温情として家督を譲り受けた息子などが県知事として登用されたりしていますが、それがすぐまた別の県と統合されたりして、結局は旧藩主の力は限りなく削ぎ落とされていったのでした。
 維新の中心となった徳川慶喜の「水戸藩」の例で言えば、慶喜の弟がそのまま「水戸県」の県知事となり水戸藩を引き継ぐのですが、4ヶ月後には他の五県と併せて「茨城県」が誕生し、この時徳川慶喜の助命嘆願尽力を尽くした山岡鉄舟が知事となります。しかしそれも一ヶ月足らずでやめていて、水戸藩に限らず、「廃藩置県」においては知事も県名と同じく、もひじょうに短期間にころころ代わっていくのです。なにせ、「二本松県」がたった十二日で「福島県」に改名させられるなど、他県も同じ様な状況で、現在の市町村合併のように各藩の離合集散が激しく行われ、その都度県名も変えられ、藩士も移動させられたのです。

  急激な政策転換による混乱がそれだけひどかったと言えるのかもしれませんが、それにともない県庁所在地の移動、リストラの嵐もひどく、これが負けた幕府側を指示した藩に課せられた明治新政府の仕打ちというのならそれなりに分かるのですが、そうではなく最初から官軍側についた藩でもそうだったのですから、旧幕藩体制にあった藩士たちにとって明治維新は一新どころか、とんでもない生活の窮乏を負うことになったのです。 
 藩が解体されたのですから藩士はみなすべて解雇ということになります。新しい「県」に雇い入れられた者はいいですが、ほとんどの武士は今後「自力」で生活していくよう言い渡されます。
 「自力」でと言われても、武士としての暮らし以外の仕事などしたことが無いわけですし、農地を持っているわけでもありません。仙台藩では北海道への移住計画をしたり、「士族授産事業」として庄内藩では開墾事業が行われます。しかし、この庄内藩の開墾事業では「希望者」と言うよりはほぼ「強制」であったのでしょう。脱落者には切腹の刑を科すとなっていたとあります。すでに田や畑になっている所へ移住するのではありません。原野に放り出され、当然脱走者も多くあったのでしょう。
 
  幕府そのものが無くなってしまったのですから、藩士の多くが一方的に藩から見捨てられ路頭に迷ったは仕方ないとして、では農民たちはどうであったのかと言えば、庄内藩の例として本書に書いてある内容によれば、戊辰戦争に負けた藩の賠償金は結局農民につけが回わり、その上庄内藩の農民は天候による凶作に見舞われ年貢減免の運動で役所に押し掛けたとあります。各地で一揆も起こっていますが、税金を取れるところから取っておこうというのは今も昔も変わらない政府のやり方で、農民にとって明治維新の恩恵など何もなく、むしろ明治新政府になって負担の方が多くなったと言えるのかもしれません。島崎藤村の『夜明け前』には木曽の住人が、明治新政府になって山の木一本自由に切ることはできなくなったことが書いてありました。結局庶民にとっては、苦しい生活が前にも増して待っていたということでしょうか。

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