『明治維新の舞台裏』(石井孝)が薩長連合(明治新政府)側から書いてあったのに対し、本書新井喜美夫氏はまったく反対の幕府側から書いています。「幕末日本を救った逆風の中の名リーダー」とも書いてありまして、取り上げられているのは井伊直弼、小栗忠順、徳川慶喜、河井継之助、勝海舟の五人です。
ものの見方というのは、どちら側から書くかで天と地ほど差がでてきます。本書は幕府老中側に立って書いてある本なので、井伊直弼が開国を主張する国際通として描かれています。NHK大河ドラマ『篤姫』では島津斉彬ら薩摩藩こそ‘先見の明'ある人たちとして描かれていますが、ここでは薩摩藩の動きは幕臣にあって倒幕運動をする許しがたい輩として書かれています。また公武合体後、自身の保身を考えた一橋慶喜や、幕府側にありながら薩摩側にもつくような勝海舟を批判し、対する小栗忠順はこれ以上ないというくらい高く評価しています。
では、まず舞台となった幕末の時代的背景や状況を考えておきましょう。そもそもの発端は太平の世を揺るがしたペリー来航がありました。ここで何より一番問題になったのは、外国からすれば、条約を結ぶにつけても調印すべく日本国の代表は誰か? ということです。征夷大将軍として全国統治していたとしても「徳川将軍」が日本の国王ではない。「天皇」がいる。彼こそが条約にサインすべき日本の代表なのではないか? 「王政復古思想」はそのような事情を背景に生まれてきました。諸外国と条約を結ばなければならなくなった時、「天皇」の存在がクローズアップされてきたのです。人々は初めて徳川の天下も天皇から仮託された政権にすぎなかったことに気づいたわけです。
日本は「神国」としてただ一度たりとも「天皇」の代が途絶えたことはありません。神話時代より万世一系として続いてきたことになっています。各時代の政権は天皇の承認、勅命によって任命されているにすぎず、徳川家康も「征夷大将軍」を拝命して江戸に幕府を開いたわけです。
「天皇家」を倒すということは、自らを御神体として崇めよと言ったあの信長ですらしていないのです。「天皇」というのは日本の歴史において絶対の聖域で犯さざるものでした。
なので「王政復古」の機運が浮上してきて京都がにわかに騒がしくなっても、徳川幕府としてはそれに対しまっこう勝負し朝敵になるわけにもいかない。新撰組も「京都警護」が名目であって治安維持のため置かれたことになっています。
とはいえ、幕府側とておいそれと全権を手放すわけにはいきません。「天皇」側の勢力が強まるに連れ徳川慶喜らが構想したのは、「天皇」を頂点に戴くとしても、それは摂関政治時代と同じで、今まで通り実際の政治を執り行うのは幕府とする「公武合体」の体制でした。
本書では勝海舟を幕府にも尊皇派にも与する日和見主義者として断罪していますが、諸外国にあたるに際しても、幕府だ天皇だと内部で分裂していては始まらない、それではかえって侵略の好機をねらっている外国の思う壺であり、「幕府派vs天皇派」という対立をなくし、「統一日本(天皇+幕府)vs諸外国」といった日本国内一致団結して事にあたるべきだというのが勝海舟や坂本龍馬が模索した理想的な日本国の姿でした。天皇と幕府の公武合体政府を最後の最後まで徳川幕府は模索していたのです。
だからこそ「明治維新」はフランス革命のように民衆の力で王権を倒す「革命」ではなく、政権の移譲があったのみの「維新(Restoration)」と呼ばれているのですね。
ペリーが浦賀に来た頃は、条約を結ぶどころか来る者すべて外国船など討ってしまえという「攘夷論」が多数ありました。ところが老中阿部正弘はペリーの親書を受理してしまう。対して「四賢侯」と言われた「雄藩連合」、伊達宗成(宇和島藩)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐藩)、島津斉彬(薩摩藩守)らは俄然それに反対、水戸の斉昭がそこに加わります。
ところが老中井伊直弼はペリーが再来日し、強引に脅しをかけると簡単に親和条約を結んでしまう。政策の不一致で幕府内は分裂、直弼と水戸斉昭の戦いが始まります。
歴史に「もし」はありません。諸外国が開国を迫るあの状況の中では、幕府とて否が応にも開国せざるを得なかったのでしょうし、果たして「攘夷」と言って当時の日本の国力で外国を撃ち破ることができたのかは大いに疑問です。阿部老中や井伊直弼が考えたように、それはとうてい無理だったでしょうから、大砲をバンバン撃ち込まれて遅かれ早かれ開国し、相手が求める条約を提携せざるを得なかったに違いないのです。
なので、本書の作者が井伊直弼の肩を持つのも分かります。が、「尊皇派」「倒幕派」に対し、「幕府側」が正しいのかと言えば、それは単に立場の問題であって、見方が変われば世界の見え方も変わるという典型例と言えるでしょう。
『明治維新の舞台裏』と『先見力と胆識』の二冊を並列して読むことで、その対立の構造もより鮮明に浮かび上がってきます。
まずは、その対立の構図です。
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井伊直弼 vs 水戸斉昭
一橋慶喜
「雄藩連合」
├→伊達宗成(宇和島藩)
├→松平春嶽(越前守)
├→山内容堂(土佐藩)
└→島津斉彬(薩摩藩守)
←(建白書提出)
(直弼は斉昭ら処分)→
一橋慶喜擁立運動と
井伊直弼解任運動
↓
これらがやがて「尊皇・倒幕」
という動きになっていく。
【安政の大獄】
幕府は反対分子を次ぎ次ぎ
逮捕(吉田松陰ら処刑)
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薩英戦争が反対に薩摩と
イギリスを接近させる
イギリスに対抗する ↓
ため幕府を後押しする 大名連合を支持する
フランス vs イギリス
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小栗忠順 政府視察団 勝海舟 咸臨丸船出
(渡米中に【桜田門外の変】井伊直弼は暗殺される)
小栗忠順 vs 勝海舟
(陸軍) (海軍操練所)→坂本龍馬
↓
各藩を統制するため
群県制度を構想する
↓
これが後に廃藩置県に。
小栗の解任 ←勝
【蛤御門の変】→勝失脚 長州敗北
小栗返り咲く
製鉄所の建設
小栗「コンパニー」
政府主導の株式会社設立構想
↓
江戸無血開城
後に斬首
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1853年ペリーが来航するや、開国が攘夷かで井伊直弼と水戸斉昭が対立します。
水戸は代々将軍のご意見番でした。『篤姫』のテーマにもなっている将軍家定に世継ぎが無く、本来であれば「尾張」か「紀州」から殿様を選ぶはずでしたが、実は八代将軍「吉宗」を選ぶ際、「尾張」「紀州」での壮絶な跡目争いが尾を引き、八代以降「一橋」「清水」「田安」の御三卿が新に跡目候補の家として設けられました。
では、何故その跡目候補には入っていない水戸の斉昭がここで暗躍するのか? 諸葛亮が劉備に説いた戦略に「天下三分の計(てんかさんぶんのけい)」というものがあります。力を三つに分散しておいて、全部が叩かれないように、不足の事態が起こっても一つは残っていくように計らうことです。
家康は先見の明がある人で、万が一徳川の時代が終わっても「尾張」「紀州」「水戸」の三家の内「水戸」のみは残るように、天下に一大事が起こった時でも「水戸」は「天皇家」側に就くよう言い残して死んだのですね。だからこそ水戸のみは将軍職に就かず、それを頑なに守ってきたのです。
なので、本来ならば水戸家の徳川慶喜が将軍職に就くことはあり得ないことだったはずです。ところが家康から十三代も下ると、その教えの本来的な意図も忘れ去られていたのかもしれません。井伊直弼が幕府内を牛耳り、思うに任せぬことにイラついたのかもしれません。斉昭は我が息子を将軍職にという野望を抱いたのでしょう。しかし水戸出身のままではまずい。将軍職につくためには一橋家に養子に出し、一橋慶喜と名乗らせます。
「水戸」は家康の命を受け、もともとが国学を中心とした神道思想を絶やさず持ってきましたから、斉昭もそのまま「神国日本」と考える国学思想の持ち主でした。「大和魂」を持ってすれば夷敵など怖るるに足らずという考えだったのです。
しかしアヘン戦争に見るまでもなく、列強が日本に開国を迫り、それを拒むと言うことは開戦を辞さないということであり、斉昭の言う精神論のみでやっていける問題ではないのです。井伊直弼は現実派だったと言ってもいいでしょう。
「水戸」の系譜ということで言えば、尊皇派も当然一橋慶喜の登場を願っていたのです。井伊直弼はそれも苦々しく思っていたのではないでしょうか。家康の命を守るのであれば当然「尾張」か「紀州」から将軍を選ぶべきで、一橋を名乗っていようと慶喜は「水戸」の御曹司であることに変わりなく、我が息子可愛さ余りか「水戸」から将軍を出そうなんて考える斉昭を、井伊直弼が許し難く思ったとしても当然と言えばあまりに当然のことだったと言えるでしょう。
世継ぎ問題は「紀州」から家茂を将軍とすればよいことで、「水戸」の斉昭が息子を擁立するのを苦々しく思っていたはずです。
『篤姫』の夫である家定は早々と次の将軍に「紀州」の家茂を指名します。ところがこの後怪奇な事件が起こります。家定が御典医の薬の調合によって具合が悪くなったのです。薬物が盛られたのです。井伊直弼は斉昭や雄藩連合の連中を処分しますが、このことが更に直弼への反発を増長させたとも言えるでしょう。
井伊直弼は幕府に対する反対分子の大量逮捕と処罰を行います。吉田松陰が逮捕され処刑された「安政の大獄」です。そうしてみると、実は城中での対立だけではなく、それだけ幕府のやり方に不満を持っていた下級武士たちも多かったとも言えるでしょう。
薬物が盛られた後、体を悪くした家定は亡くなり、次ぎに擁立した紀州の家茂も21歳という若さですぐ亡くなってしまいます。さらに直弼までが「桜田門外の変」で暗殺され、これで一橋慶喜が将軍になるのを阻害していた敵陣はことごとく消えていきます。
偶然とは思えません。この一連の流れは繋がっているのでしょう。天下晴れて一橋慶喜は十五代将軍に就きます。
徳川慶喜にとって「大政奉還」というのは「水戸」に生まれた者としても自然に持っていた思想であると思われます。それが家康が定めた「水戸」の使命でもあったはずだからです。しかしそれは公武合体後も徳川が同じ政権に就くという考えのものでした。ところが予想だにしない「倒幕」という思想が幕臣たちからも生まれます。「雄藩連合」のように勝手に幕府の意向に反対を述べるものから長州藩のように全面尊皇・倒幕思想を打ち出す藩まで、幕府は統制が効かない各藩の行いに業を煮やすのです。
「廃藩置県」の思想はここから生まれます。幕府をもっと中央集権化して近代政治へと脱却させねばならない。そのためには各藩の旧体制が弊害になる。各藩を統制するため小栗忠順は「群県制度」を構想するのです。徳川幕府を新しい組織として立て直すことに尽力したのがこの小栗忠順と言えるでしょう。
ところが慶喜や勝海舟の考える新しい政府とは、幕府を近代化し尊皇派と闘っていくことではありませんでした。公武合体した新政府を構想したがゆえ、とことん幕府の体制を維持しようとした小栗忠順は失脚させられ最後は斬首という扱いを受けています。
しかし結果はどうなったのでしょう。大政奉還して慶喜はなおも政権の座につこうとしましたが、いくら慶喜が天皇を中心とした公武合体の新政府構想を持ったところで、最初から岩倉具視を始め倒幕運動をしてきた薩摩藩や長州藩の面々たちは徳川政権と一緒に新体制を築こうなどという考えは無かったのです。
「鳥羽伏見の戦い」によって“錦の御旗”を持った官軍を迎え撃つことになってしまった幕府側の会津・桑名藩は賊軍となり、突如“敵対勢力”とされてしまうのです。慶喜は朝敵にあらずと恭順の姿勢を示しますが、討幕派の勢いは止められなくなっていたのです。慶喜は江戸開城を迫られ、助命嘆願だけは叶い、駿府へ蟄居します。
これが明治維新のあらましです。一斉に文明開化、それまでの日本の文化・風俗は一掃され、人々は髪を切り、洋装をし、近代化への道を歩み始めるのですが、その裏では「神仏分離令」が出され、仏教排撃運動が起こります。日本は村々にそれぞれの檀家寺があり、そこで葬祭が行われていました。ところが日本国の正しい宗教は「神道」ということになり、いきなり廃仏毀釈の波が押し寄せるのです。
まるで中国共産党が「共産化」を進めるにあたり紅衛兵たちが古い文化を“ブルジョア的”だと非難し大粛清を行ったのに似ています。寺や仏像が一斉に破壊され、僧侶は還俗、つまり僧侶をやめることを強制されたのです。
また、小栗忠順が各藩の勢力を弱体化させるために考えた「群県制度」は「廃藩置県」として、旧幕藩を廃止、新しく県を置くこととなりました。そのための悲劇は日本全国で起こったのですが、それについては、またいずれ書いていきたいと思います。