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2008年7月24日 (木)

『白虎隊』中村彰彦 文芸春秋

  白虎隊(文芸春秋)
  幕末 江戸開城、明治維新を追ってきたので、幕府の最後の砦となった会津について読んでみようと『白虎隊』を買ってきました。
 少年達の悲惨な最期として有名な話しでありながら、その実体をあまり知らず、今回も本書を読んで、この『白虎隊』の「白虎」が東西南北の守り神である「玄武・青龍・朱雀・白虎」のあの「白虎」であったことを知り、考えてみればその名からそうであって何ら不思議では無いのに、これを読むまでは、まさかそこへ結びつけて考えてもいなかったのでした。
 
 また、単に勇猛果敢な名前としてつけたのではなく、年功序列順に
 「白虎隊」=十六、十七歳
 「朱雀隊」=十八~三十五歳まで
 「青龍隊」=三十六~四十九歳まで
 「玄武隊」=五十歳以上
 と、隊分けがしてあるのでした。しかも、これが「士中」「寄り合い」「足軽」と身分で三段階序列があり、武士の時代であれば当然と言えば当然なのかもしれませんが、こういう時も厳然たる「身分」で分けられるのだなと、少し驚きでもありました。
 ただ、年齢順に名付けるのであれば、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」と、四神の色と季節、年代は関係づけられているので、一番若い「白虎隊」は「青龍隊」と名付けられるべきではなかったのか? とも思いますが、どういった経緯でそのようにつけられてしまったかは定かではありません。若者を表す「青年」という言葉もここから来ていますが、会津では若者組が「白虎隊」とつけられてしまったようです。
 (調べてみましたら、城外東西南北に配置された場所によって命名されたとのこと。よって西に配置された若年組が「白虎」となったようです。)
      
      (北)
      玄武
       |
白虎(西)―  ―青龍(東)
       |
      朱雀
      (南)
 
   
   そもそもの ことの始まりは『先見力と胆識』新井喜美夫http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2008/06/post_a774.html や、『明治維新の舞台裏』石井孝 岩波新書http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2008/06/post_ae97.html で書いたように、「鳥羽伏見の戦い」によって“錦の御旗”を持った官軍を迎え撃つことになってしまった幕府側の会津・桑名藩は賊軍となり、突如“敵対勢力”とされてしまったことに始まります。
 徳川慶喜はすぐさま江戸に逃げ帰り恭順の姿勢を示しますが、官軍の勢いは止められなくなっていたと同時に、慶喜が江戸開城をしようと、新撰組の残された部隊や会津・桑名の幕府軍側もとうていおいそれとは引き下がるわけにはいかなくなっていたのです。
 ところがどうも官軍の近代兵器装備に比べ、こちらの幕府軍が持っていた銃はどうも使い物にならないような物だったらしく、すでに西洋では使わなくなった不良品の銃を武器商人に掴まされていたのかもしれません。会津軍の持っている銃は命中率も極めて低い「ヤーゲル銃」であったと本書に書いてありました。
 
  勝手知ったる自陣内での戦いなのですから有利かと思いきや、こういったものは何が勝敗を分けるのでしょうね。確かに装備もあるでしょう。人海戦術的人数もあるかもしれません。経験も大きくものを言うでしょうね。
 いくら当時の十六、十七歳が元服を済ませているからと言って、それでもやはり十六、十七です。大隊を組む場合、こうした若年者だけという組み方もどうなのでしょう? どう組もうと勢いづいた官軍を打ち破ることはできなかったのかもしれませんが、普通だったら経験豊富な年代の人たちと組ませるのが常識的な組み合わせではありませんかね。ま、指揮官達はいたようですが、この年齢別「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」「白虎隊」という隊の組み方はどうであったのか? と思わざるをえません。
 
  飯盛山で遙か眼下に城が炎上しているかに見えた白虎隊員たちは、自害を決意します。ここが日本の武士魂というか、いとも簡単に死を選ぶのですが、太平洋戦争時まで、敵に捕まって辱めを受けることを潔しとしない風潮が根強くありました。むしろそれが武士の美学であり、少年達もそれを選んだということですね。
 ところがその後、なんと、勝敗がつき戦い破れた後も飯盛山の隊員たちの死体を葬ることは許されず野ざらしにされたとありますから、官軍に刃向かった者への罰としても無惨なことをするものです。哀れに思って埋葬しようとした者も逮捕されたとありますから、仕方なく放置して置くより他なかったのでしょう。その後願いが叶って埋葬許可が下りたとありますが、歴史の教科書などには記されていないので、こういったことを知る由もありませんでしたが、敗戦の惨めさはこういうところにも現れるのですね。それにしても陰惨な仕打ちと言えます。
 
  ところで、この逆賊であるはずの「白虎隊」の物語が、日清日露、第一次・二次世界大戦と日本が帝国主義政策を打ち出し軍事拡大路線に向かう中、美談として登場するようになるのです。若者たちの純粋な君主への忠誠心、戦に臨む決死の覚悟が国策に利用されるのですね。太平洋戦争時の「特攻隊」はまさしく「白虎隊」の焼き直しと言えるのでしょう。与謝野晶子ならずとも、こう歌いたくなります。
   
   ∥ああ をとうとよ君を泣く
   ∥君死にたまふことなかれ
   ∥末にうまれし君なれば
   ∥親のなさけはまさりしも
   ∥親は刃をにぎらせて
   ∥人を殺せとをしへしや
   ∥人を殺して死ねよとて
   ∥二十四までそだてしや
 
 

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