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2008年9月18日 (木)

『古事記』 古代日本と数の概念

  文字や数字の無い時代でも自分の両手の指を使えば「10」までの数は簡単に数えられます。十進法は非常に合理的な数え方と思われます。ところが日本で最古の書と言われている『古事記』に出てくる数は「十」ではなく「八」なのです。これは一体どういうことなのでしょうか? 考えてみました。
 
 今でも「四国八十八ヵ所」とか「八十八夜」とか、何故か日本では「八」という数字が多く好まれて使われています。『古事記』には、「大八島」、「八百万」、「八尋」、「八紘一宇」 「八咫の鏡」「八咫烏」 「八雲」、「八重垣」、「八十毘良迦」など、まさに「八」の字オンパレードです。
 天照大神は父伊邪那岐(伊弉諾)命より「八咫勾玉を」貰い受け、「八咫鏡」と合わせて伊勢神宮に納められており、名古屋の熱田神宮には「八俣(やまた)の大蛇(おろち)」から出た「「天叢雲劔(あめのむらくも)の劔=草薙劔」が御神体となっています。天皇の象徴である三種の神器もこうした「八」の数字に由来したものになっているのですね。
 
 このように、『古事記』でとことん表現されてきたのは「八」という数字なのです。では何故「八」がこれほどまでに特別な意味を持った数字として用いられてきたのでしょう。両指を使うとしても「十」の方が分かりやすかったはずです。 
 古代「眞」という漢字は「一」という意味を持ち、「片」と「片」が合わさって、一対になって初めて「真」になると考えられていました。完全な数としての「一」=「眞」とは、一対(偶数)のものであったのですね。だからこそ割り切れない奇数ではなく、割り切れる偶数が殊更好まれたということもあるでしょう。しかしそれなら「十」も偶数であり、完全という意味であるなら「十」こそ一番使われて良い数字でもあったはずです。ところがキリの良い「十」ではなく、何故か多用されたのは「八」という数だったのですねえ。
 
 そこで「十」より大きい数字を見てみると面白いことに気づくのです。
 五色
 五十鈴川
 五百津眞賢木(いほつまさかき)、
 と、「五」「五十」「五百」と「五」という数字も使われています。きっぱりと「十」の半分の「五」なのですね。「十」「百」「千」の半分、これは先の「片」と「片」を合わせることで「真」になるという古代人の数の考え方に照らし合わせると分かりやすいかもしれません。半分と半分を足して「一」になると考えるなら、確かに「五百」と「五百」とで「千」です。
  「十」や「百」「千」ほど大きくはないけれど、その大きさの度合いを言うとき、「その“半分くらい”はある。」と考えたのが、これらの数字の概念でしょうか。古代の「五」という数字の位置づけがなんとなく分かる気がします。とはいえ、この時だけ「八」の半分「四」ではなく、「十」の半分の「五」になっているのでしょうか? 合点がいきませんね。

  「五」の漢字の元は「二」に交差して「〆」を入れたものであると漢和辞典には載っています。「五」という数字は単なる五個あるという意味の「5」ではなく、「天」と「地」のふたつの二線「二」に「〆」を入れた漢字であり、「〆」に相当する天と地の間は、五つの元素「木・火・土・金・水」で構成されているとされてます。
 つまり、「五」は陰陽五行思想に基づいて考えるべき数字であり、また密教での「地・水・火・風・空」を意味する数字でもあります。「五重の塔」やお墓などに積み上げてある「五輪塔」は、それを象(かたど)ったもので、「五」は、「八」ほどでないにせよ、古代の人々が宇宙(天地)を現すシンボル(象徴)的数字であったことが分かります。

 これとは別に、最大級の数として出てくるのは、
 千木(ちぎ)
 千尋縄(ちひろなわ)
 千代に八千代に、
 の「千」という数字です。無限宇宙の大きさを、ここでは永遠という意味で「千代に八千代に」と「千」だけではなく「八千」いう数が使われていることに注目しましょう。数の大きさ“大きい”という意味では必ず「八」が用いられているのです。
  確かに広い神殿という意味で「八尋殿」の説明があったり、「八咫鏡」も巨大な鏡であると広辞苑に載っています。
  実は「八尋」の「尋(ひろ)」や「八咫」の「咫(あた)」は、長さの単位なのです。古代の人は身体の各部を尺度としてモノの長さを測っていたのですね。「尋」は両手を大きく広げた幅で、これがその人の身長の長さと同じと言われています。ということは、「八尋殿」は単に“大きな神殿”ということを言っていたのではなく、正しく「尋」が「八つ」ある巾の神殿ということになりませんか?
 
 そこで古代の神殿で今尚その形式を永らえ保存されている建造物は?何か? 考えるまでもなく、伊勢神宮の正殿ですよね。そこでその正確な寸法が分からないか調べてみましたが、正確な寸法は当の伊勢神宮ホームページにも載っていませんでした。
http://www.isejingu.or.jp/gegu/gegu2.htm
 私の持っている『図説 日本建築の見方』宮元健次(学芸出版社)に、およその縮尺図があり、計ってみると、正殿の巾は(高床式の床の巾が)、ほぼピッタシ「八間(一間は約1.181mくらいなので)=14.544m」になりました。正殿建物本体の巾は6間=10.908mと思われます。
 大社と呼ばれた出雲大社は正方形をしていて、こちらも台になっている床は「八間」、正殿本体は六間(6×6)になっているようで、伊勢神宮、出雲大社、どちらもこの「八間」と「8」の数字になっていることと、「八尋」の「八」は単なる偶然の一致なのでしょうか?
 
  現在の日本家屋の間取りでは、畳一畳の長さを「間(けん)=1.818m」で表します。1尺が30.3cm、一間は6尺です。
 とはいえ、「一間」が「一尋」であったとは思われません。というのも、古代の日本人は「倭人」と呼ばれていたくらいですから背がかなり小さかったと思われます。ですから「尋」が今も日本で使われている建物の間取り寸法「一間(約1.181m)」であるとするなら、当時の日本人の平均的な身長が180cmくらいなければなりません。けれど現代の日本の若者男子でさえ平
均身長は170cm前後ですから、とても古代人の「尋」と「間」が同じ尺度であるとは考えにくいのです。   
 では「八尋殿」の「八尋」という数字と神宮の正殿の「八間」の巾と考え合わせるとき、同じと考えていいのでしょうか。同じであるなら現在も「尋」という単位であるはずです。違うから同じ言葉を使わず「間」とか「尺」という長さの単位ができていると考えた方がいいですよね。
  
 伊勢神宮は創建当時のまま建物の形状は移し替えられ遷宮されてきました。サイズが変わったということは絶対無いのです。そこで古代中国の単位はどうであったのか調べてみました。中国では日本の「尺貫法」にあたるものは「尺斤法」というのだそうで、「貫」は日本独自の単位だそうで、中国にはありませんが、尺は同じものがあるのです。
 日本では1尺が30.3cmですが、中国の1市尺は33cmほどで、日本より3cmほど長いようです。中国の尺の単位を日本人向けに少し小さくしたのでしょうか? これも考えてみれば「尋」が両手を広げた幅で、その人の身長に等しい長さであるなら、日本人の体躯から出てくる「尋」と、中国人の「尋」とで違っていてもおかしくはなく、日本人の「尋」や「尺」が中国人のそれより小さかったと考えても不思議は無いかもしれません。
 
  とはいえ、「尋」と「尺」では20cmほどの差があるとして、この差をどう考えたらいいでしょうか? そこで思うに、人は自分の身長とひったしの高さのドア(入り口)を作りませんよね。入るたびにアタマをぶつけてしまいます。つまり「尋」が自分の身長の高さとするなら、それに20cmくらい上乗せして入り口を作るのが普通じゃないでしょうか。そうであるなら、入り口の高さが「尋」+20cmとして、「一間(1.818m)」というサイズができたと考えるのも合理と考えるのです。布団を作る際にも、身長+20cmくらいで丁度いいサイズだったのではないでしょうか。
 人が立って余裕を持って通り抜けられる尺度が「間」で、それを基準値として日本家屋のサイズは考えられていった。この「一間」というサイズと「尋」との関係が、それで分かるように思うのですが、どうでしょうね。

  ところで、「八尋殿」が単に広いを意味するのではなく、ほんとうに「尋」が「八つ」の長さとするならば、“大きい勾玉”“大きい鏡”と伝えられてきていますが、「八咫勾玉」や「八咫鏡」も正しく「咫」が「八つ」あった勾玉、鏡と考えられますよね。
 「八咫(やた)」の「咫」とは、[「やあた」の約。「あた」は古代の尺度で親指と人差し指を開いた幅という]と辞書には載っています。
 こうしたことから「八咫勾玉」や「八咫鏡」の大きさが推測できるのですが、もしこれが直径であるなら、ほんとうにとてつもなく大きな鏡ということになります。ちなみに私自身の「咫」を測ってみると、だいたい16cmくらいでした! ということは16cm×8=128cm!! ??
 いくら大鏡であったと言っても1m28cmもの大きな古代鏡ということはあり得ませんよね。

  「咫」とある場合、これは直径ではなく周囲(円周)なのですね。円周としても「八咫」ということは直径で40cmにもなる大鏡です。だいたい国内で発見されている銅鏡は大きいモノで22cmくらいが普通です。たいていはもっと小さく、そういったサイズでなら日本各地に数多く出土しています。けれど、直径40cm以上にもなる大鏡というと制作するのにもそうとうな技術が必要でしょう。はたしてそんな大きな鏡が古代にあったのでしょうか? 
 そこで調べてみると、なんと九州古代伊都国、曽根遺跡群にある平原遺跡から直径46,5㎝の「内行花文鏡(ないこうかもんはちようきょう)」が発見され、2006年国宝に指定されたとありました。
 日本最古、しかも最大級です。中央に8枚の葉のような模様があり、その外側に8個の弧を描くような模様がある銅鏡で、平原遺跡からは、同じ大きさの鏡が5枚も出土しているそうです。
http://www.city.maebaru.fukuoka.jp/city/bunka/ito-museum/kagami-frame.htm

 すると、やはりこの「八咫鏡」も元来言われてきたような、巨大鏡という意味で、“大きい”ということを象徴して言われてきたのではなく、実寸で言っていたと考えるのが正しいのではないでしょうか。計算してみると、周囲がヒッタシ「八咫」であったということが言えるのですね。
 直径46.5cm×円周率3.14=円周146.01cm  
 円周146cm÷8(八咫)=一咫18.25cm
 古代の製鉄作業、鏡や剣を作る職人は男性であったでしょうから、この「内行花文鏡(ないこうかもんはちようきょう)」の直径46.5cmから、当時の「咫」の長さがほぼ18.25cmということになります。「咫」は親指からからひとさし指の先までの長さで、それは丁度手の平の手首から人差し指の先までの長さとも同じになります。手のひらのタテの長さと同じなのですね。ですから、女性である私の咫=(手のひらのサイズ)=16cmより2cmほど大きい18.25cmの手のひらサイズというのが、当時の男性の手の大きさであり、「咫」の長さであったのでしょう。なかなか面白いですね。

  『古事記』の中の「八」の数字を追ってきたのですが、ただし極めて例外的に、「八」より大きい数字として、「十拳剣(とつかのつるぎ)」の「十」が出てきます。だから「十」という数を古代の人が知らなかったわけでも、使わなかったわけでもありません。ただ、興味深いことは、『古事記』の中に「十」が出てくるのは、この伊邪那岐の「十拳剣」だけなのです。これ以外に「十」という数字はまったく出てこないのです。
 つまり「十拳剣(とつかのつるぎ)」だけが「十」であって、それ以外のどんなものに対しても「十」という数字は使われてはいないのです。では伊邪那岐命(イザナギのミコト)にのみ「十」という数字は使われているのでしょうか? そうとも言い切れません。伊邪那岐命の象徴である「八咫勾玉」は「八」です。
  天皇家が代々執り行う大嘗祭で、天皇が登る壇は「八角」です。「八重畳」や、聖徳太子の夢殿が同じく「八角形」であることなど考えると、天皇にのみ「十」が使われるということではありません。やはり「八」がキーポイントとなっていて「十」では無いのです。ということは、「十」はひじょうに特殊な場合にのみ使われているのでしょう。「十拳剣」の「十」は例外中の例外と言っていいかと思います。

 では何故、古代日本人は「八」より明らかに大きい「十」を使わなかったのでしょうか。最大級の数字を10本指で一番数えやすい「十」ではなく「八」としたのは何故でしょうか。日本列島は「大十島」ではなく「大八島」であり、「千百万」でも「十尋」でもなく、「十紘一宇」「十雲」でもなく、「八百万(やおよろず)の神々」であり、「八尋(やひろ)」であり、「八紘一宇(はっこういちう)」としたのは何故でしょう。
 たくさんの雲がたなびく様が「十雲」ではなく、「八雲(やぐも)」であり、麗しい大和の山々の嶺の重なり合う様が「十重垣」ではなく、倭建命は「八重垣」と詠いました。
 もし数を数えるとき指を使っていたなら、「八」より「十」を使った方がもっと分かりやすく自然です。「八」より「十」の方が大きいということは当然誰もが知っていたことでしょう。でも「十」を使わなかった。
 実は「十」という数字は馴染みがなかったのですね。数として馴染みがあったのは「八」の方だったのです。
 
  「易」は「八卦」と言われているように「八」を基準としてその「八倍」「六十四卦」で構成されています。その数の組み合わせで世の中のあらゆることを占っていました。 また方位も東西南北を更に×に割り八方位となっています。四方八方の「八方」と同じ、すなわち「八方」が「隈無く」「全方向」という意味でもあったのですね。「全方位」「隈無く」ということは、あらゆるもの“全て”という意味で、そのため古代日本列島は「大八島」と「八つ」の島で全日本が言い表され、「八百万の神」というように、全ての神の数も「八百万(やおよろず)」と記されています。その方位と同じく、分割されたもので時をしるし、「寅の刻」とか「丑三つ時」とか、これは干支で呼んでいます。
 
  古代日本では、中国の「八卦」の概念をそのまま使用、大本(太極)は[一]であり、これを二つに割って両儀「- -]となり、この両儀が四象となり、四象が八卦となるのです。
 
 その八卦とは、
乾(けん)→天
兌(だ) →沢
離(り) →火
震(しん)→雷
巽(そん)→風
坎(かん)→水
艮(ごん)→山 
坤(こん)→地
 となっており、「乾坤(けんこん)」とは、「天(乾)」と「地(坤)」を意味し、その間に森羅万象があると考えられていたのでしょう。また「乾」は陽、「坤」は陰であり、こうした陰陽の組み合わせが運命を決めること、また博打の世界では偶数・奇数を「丁半」で決めたりしているので、「乾坤一擲」というように、易用語が勝負に賭ける言葉となって使われています。
 陰陽で言えば奇数が「陰」で偶数が「陽」、その陰陽が合わさって太極、完全なる宇宙を現していました。また「気」として見るなら奇数は「陰気」、偶数が「陽気」を現しています。
 つまりこの「八」が、全方位、全世界、それを表す数字であり、だからこそ『古事記』でも「八」が何事を表すにしても基本数字として記されていたのですね。
 
 卑弥呼が鬼道を使ったと『魏志倭人伝』には記されていました。古代日本においても占いは重要な国の命運を決めるものであり、その祭祀の中心を成しているのが天照大神からずっと続く天皇家の系譜であり、それを記した『古事記』が中国の「易」思想で根本となる「八卦」の「八」をことさら重要視したのも頷けます。
 現代日本人も今尚「八」は末広がりのおめでたい数字として使っていますが、卑弥呼の時代より、「八」は単なる数字の8ではなく、“大きい”“広い”“立派な”という意味にも使い、完全なるもの、全宇宙、全世界を表す時のシンボリックな意味を持った数字として使われてきたのですね。

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2008年9月20日 (土)

『関所 その歴史と実態』大島延次郎

 江戸時代、各街道には関所が設けられていました。「関」を設けるということは人の往来も物資の流通も阻むということであり、警備上の効果はあったかもしれませんが、経済や文化の発展ということから言えばどうだったのでしょう?
 地域の特性ということでいえば藩ごとに独特の政策・産業・文化が育成されたという功績があったかもしれません。地方地方で独特の方言も保たれました。弊害ばかりとも言い切れませんが、グローバリズムとは全く逆行する「関所」という物流の阻害・交通の遮断という論理が、どのようにされてきたのか歴史的な見地も考えながら、そのコンセプトを検証していきたいと思います。
 
 とはいえ、日本のように島国ではない大陸にあるアジア各国、ヨーロッパやアメリカ、アフリカなどの、世界中のたいていの国々では陸地続きに国境があるので、「検問」や「検閲」は日常的なことかもしれません。そういった感覚で考えれば「関所」を通るということがさほど奇異なことではなく、現代日本人にとっては、一々往来を行くのに「関所」を通るという、そんなややこしいことがあったのかと考えるのかもしれませんが、むしろ世界的に考えれば、その都度「関所」を通り抜けるということは当たり前のことなのかもしれません。
 荷物あらため、身分あらため、検問は世が不穏であればあるほど厳しくなるのも当然で、金属探知器は無論のこと、昨今では化粧品のような水モノが一切許されず、化粧品を旅行に持ち歩く女性は戸惑ったりします。

 「関所」のそもそもの始まりは、荷物や身分あらためのものではなく、敵の侵入を防ぐ防御のための「関」でした。本書によれば201年神功皇后の時代、新羅より凱旋した皇后を討たんと待ちかまえていた忍熊別皇子らを防戦するため「関」を作って防いだのが、最も古い「関」の記録であるようです。
 なんと神話の時代からすでに防御としての「関」が設けられていたのですね。そういえば、古代の遺跡である九州佐賀の吉野ヶ里遺跡でも柵を巡らした環濠集落でした。信長が武田の騎馬軍団を破った長篠の合戦で馬防柵が設けられましたが、このように敵の侵入を防ぐ目的で作られたのが古い「関」の最初で、東北・北陸の蛮夷の南下を防ぐ目的で白河の関・念珠関などがあり、もっぱら軍備目的で「関」は街道・要所に設けられていったようです。
 戦時には「関所」が戦いの最前線となるわけですね。天武天皇が蜂起した壬申の乱の時も不破関を封鎖し、敵をそこにとどめて勝利したとあります。
 
 この「関」を守っていたのが「健児(こんでい)」と呼ばれる強者で、奈良・平安時代に設けられ、実はこの健児が「ちから-びと(力人)=力士」の語源でもあるのです。「力の強い人。強健な者。また、勇猛な兵士。」と辞書には載っています。古い時代はそうした力持ちの戦士が「関」を守っていたのですね。
 ところで余談ではありますが、相撲では横綱の土俵入りなどもそうですが、土俵上で必ず四股を踏みます。こうした相撲を取る前の儀式となっている四股は、決して単なる準備体操などではなく、もともとは呪術的な意味を持ったものでした。「横綱」の「綱」も本来は「しめ縄」だったはずで、大地を力強く踏み、その踏みならすということは「国踏み」の意味、踏みならすことでそこが自分の陣地であることを証明することでもあり、神事であったものがやがて娯楽性を持ち、今のような興業に発展していったのでしょう。
 いずれにしてもその土地の大男・屈強の力持ちが「健児」となり、奈良・平安時代には「関」を守り、神事にはしめ縄を巻いて、相撲をとったのでしょう。
 
 「関所」として、もっとも私たちに馴染みがあり、有名なのは『勧進帳』に出てくる安宅の関でしょうね。頼朝は落ち延びる義経を追わせ、各関に厳重な警備を命じますが、歌舞伎では弁慶の機転で通り抜けることになっています。実際義経一行は無事平泉にいくことができます。
 義経をかくまった藤原秀衡は、ここで反対に義経を追ってくる頼朝軍を平泉に入れさせないよう念珠関・白河の関を封鎖して義経を守るよう遺言するのですが、息子泰衡は頼朝の脅しにおびえ、あっさりと義経を討たせてしまいます。
 ということは、当時の「関所」の管轄が必ずしも幕府の影響下にあったのではなく、各豪族、その地域の権力者の配下にあったということですね。鎌倉幕府、頼朝からの勅命があったとしても、秀衡はそれをはね除け、頼朝軍と戦うつもりでいたのですね。
 
 ところで、実は「関所」の役割は、身分あらため、武器や出女の検分ということだけではないのですね。「関所」では必ず「通行税」というものを払わねばならないのです。とはいえ、意外なことにこれは政府の管轄ではなく、「通行税」は各地方の寺社が寺院仏閣の創建や修理保全を目的として徴収し、大きな収入源としていました。
 ちょうど義経が安宅の関を通過した時代、中世になると軍事目的とは別に「関」では「通行税」を徴収するようになるのですが、「通行税」であれば私たちはこれを税金のようなものと考えますが、実は元は東大寺とか各寺が勧進目的で「関銭」を取るようになり、それが他の寺社、豪族も目をつけるようになり、至る所に「関」が設けられるようになったとあります。
 つまり寺社への強制寄付のようなものと考えればいいでしょうか。船が寄港する港や、寄る川でも「関料」が取られ、その負担もかなり大きくなるので、幕府から何度も禁止令がでますが、「関」を設けただけで多額のお金が入ってくるわけですから、そうした甘い利権を寺社が簡単に手放すわけはありませんよね。「関」が到る所に設けられ、なかなか止むものではなかったようです。
 また寺社のみならず、地方の豪族も関所を設け、同じ市内でいくつもの関をまたがなければならない事態もあったようで、ひどい所では、淀川のほとりだけで「関」が380カ所あったそうです。
 甲斐の国武田では人の往来だけではなく商品に対しても関銭を課したと言いますから、関税のようなものでしょうね。取れるところから取っておこうというのは、今の税金と大差ないかもしれません
 武田領内では商人以外からは関銭は取らず、商人5銭、馬一頭10銭だったそうです。しかし「関」を通るたびに「関銭」を取られるのではたまったものではありません。
  富士山周辺では参拝客を見越して各豪族が関を多数設けたそうですが、しかし通行の度に「関銭」を払わされるのにイヤ気がさし、そのために参拝者が激減、富士詣での人が減っては元も子もありません。仕方なく「関」を無くしたりもしているそうですが、税金を高くしすぎれば購買意欲が無くなりかえって経済が落ち込むのと同じです。

  信長はこうした「関」を撤廃しました。信長は「日本」という国をひとつに、天下統一ということを考えていた人ですから、「関」のようにいちいち面倒な手続きを要し、交通を阻み、物資の流通に弊害のあるものなど即刻廃止したのですね。自由な往来、自由な物流と自由経済の発展を試みた人でもありました。それ一つとっても、実に優れた近代思考の持ち主であったことが分かりますが、楽市楽座の税も徴収をしなかったことが本書に書いてあります。
 市の商品売り上げに税金がかからないということは、タックス・フリーの免税店と同じですから、庶民の購買力も上がったでしょうし、何より経済の繁栄をもたらしたことでしょう。そればかりか信長は現在の東海道の元、往来の復旧に力を尽くしたとあります。
 私が住んでいる地域には旧鎌倉街道の名残がある珍しい地域でもあるのですが、街道とは名ばかりの、巾が1メートルほどの、人がふたり並んで歩けばいっぱいという、狭い道幅の街道なのです。これでは馬も一頭くらいは進めるでしょうが、速駆けや、多くの武具で固めた戦闘部隊が通るには狭すぎる道なのです。この鎌倉街道はすぐ途切れ、旧東海道にとって替わるのですが、この旧東海道を整備したのも信長でした。
 交通と流通が国造りや経済発展のためにいかに大事か、戦に赴くにしても交通網がいかに重要か、インフラ整備の必要性を信長は分かっていた人だったのですね。

 ところが家康は、信長とは違い「徳川家」をいかに存続させるかに砕身した人でもありました。「豊臣家」の崩壊の轍を踏むまいと、各藩の蓄財も許さず、参勤交代や武器の移動の制限、あらゆる手を使って反乱の目を摘んできたのですね。
  家康は戦国時代の下克上を知っていますから、内乱を一番怖れたのでしょう。「入り鉄砲に出女」と鉄砲の流入と人質となっている奥方たちが江戸から抜け出すことを厳しく取り締まったことは有名です。女の「通行手形」には詳しい人相も書いてあったそうですから、別人になりすまして通ることも警戒していたんですね。うたぐり深いというか用心深いというか、家康の執拗、細心の性格が窺えます。
 「関所破り」は磔(はりつけ)の刑と厳しく、裏街道や抜け道をゆく者もいたようですが、村民の密告制度もあったようで、明智光秀が本能寺で信長を討ち、しかし毛利軍と対峙していた秀吉は電光石火の早業でとって返し、秀吉軍に追われる身となった明智光秀は落ち延びる際、農民に殺されています。
 この時大阪方面にいた家康は急遽自陣である岡崎に逃げ帰りますが、この時も表街道の東海道は通らず、鈴鹿山系を経由、伊賀越えをしたことは有名で、忍びと家康の結びつきはこうした時からあったのですが、「関」を通らないで裏道を通り抜けることは、村人の協力無くしてできなかったのです。
 近隣の村々へ用があって行くとか、山々へ仕事に行くのに、村人は当然「関所」を通るということなどせず、いくらでも山越えの抜け道があったのでしょう。しかしよそ者を簡単に通すことはしなかった。当時から密告者には報奨金を与えたり、「関所破り」を村人が監視していたのです。

 家康は外様・譜代大名も参勤交代という制度を布き、隔年交代で江戸詰を命じますが、大名行列がしょっちゅう行き来するのですから街道は整備され、それに伴い旅籠や茶店、街道沿いに松並木が植えられたり、一里塚が置かれ、五十三次ぎのように宿場そのものが名所となったりもします。
 「関所」を通るには「通行手形」というものがいるわけですが、本書によると遊芸人や下賤な者に通行手形は無かったので裏街道を行くか、関守が黙認するのが普通であったとあります。また山伏や僧は関所の通過が自由だったとありますから、芸人・僧侶、などといった人たちに限り往来が許されていたのでしょう。「関銭」も免除されていたとあります。
 そのため僧や山伏に偽装して関所を通過する者が多くいたようで、義経が『勧進帳』で山伏に扮して通過するのも、芭蕉が僧の出で立ちで奥州へ旅立ったのも、「関所」を簡単に通過できるのが、そうしたいでたちであったからなのでしょう。
 「関」をスムーズに通るためには、金額の多寡に限らず「袖の下」が巾を効かせていたり、今も昔も役人の堕落と腐敗、賄賂による便宜はこうした「関」でもあったようです。
 
  このように厳しい検問と往来の取り締まりがあったことと、これは一見相反するようにも見えますが、江戸も天下太平の世が続き、庶民の生活もそれなりに豊かになり、余裕もできたということなのでしょう。物見遊山がてらの「伊勢参り」や「善光寺参り」など、庶民の旅が大流行します。人々は一生に一度でいいか「お伊勢さん」や「善光寺さん」、そうした寺社への旅をしたいと願っていました。今で言う積み立て貯金のような「伊勢講」など盛んに行われ、ツアーが組まれたりしています。『東海道膝栗毛』に描写されたままのような庶民の旅がされるようになりました。
 これは『江戸の旅文化』神崎宣武 岩波新書 http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2007/03/post_6443.html にも書きましたので、ぜひ読んでみてください。
 この本には、田植え前の農閑期、正月から春などにかけ、往来激しく街道は旅行者でいっぱいになるということが書いてありました。広重の江戸日本橋の橋の上や、越後屋前の通りの絵を見ても分かるように、どこも人で賑わい、けっこう人の出が多いのですが、お伊勢参りの街道もそれに準ずる賑わいだったようなのです。
 どうもそれをネラって伊勢街道には、これまた、たくさんの関が設けられていたようなのですが、イヤハヤですね。
 

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